中国株・起業・人生相談・Q&A-ハイハイQさんQさんデス-邱 永漢

「生きる」とは「自由」とは何か

第三章 海の砂漠(1)

その3

春木は思わずぶるっと身体をふるわした。
武者ぶるいとはこんなことをいうのであろうか。
何か激しい感動が胸の底から湧き上がってくるような気がした。
眼がしらがぽっとかすんでしまいそうだった。
よかった。
よかった。
ああ、よかった。
もうこれで大丈夫だ。
これで俺は飢えから解放されたのだ。
神よ、あなたが証人だ。

海から這い上がってきた金竜は顔を流れる湖水を拭いながら、
「この辺は駄目だ。もっと沖へ出よう」
その手に握られた海老は五寸ぐらいの小さなものだった。
しかし、それがいかに小さなものであるにせよ、
海老がとれることは見事に立証されたのだ。

「寒くないか?」
「寒くたっていい。
早く船を借りて沖へ出るんだ」
「でもほかになにも用意して来なかった。海老の容器さえない」
「用意なんか要るものか、身体を張ってやる仕事じゃないか」

なるほどそれには違いない。
春木が付近の貸端艇(かしボート)屋に走って、
ボートを一隻借りてくると、
二人は沖へ向かって潜ぎ出した。

爽やかな日射しを浴びた、南国の海は眠ったように静かである。
北方の海のあの深い青さが沈思なら、これは夢見る陸だ。
輝くばかりに美しい午後の海は、艶やかしい女の膚だ。
そこには悲しみはない。
嘆きはない。
怒声も焦燥もない。
ただ光と風と、その二つが織りなすやさしい歓声があるのみだ。

沖へ出た金竜は海の男の本領を発揮して、
一糸まとわぬ素裸になった。
思わず嘆声が出るような、隆々とした筋骨である。

「ここにこのまま舟をとめて待っていてくれ」
そう言うと、彼はさっと身を翻した。

跳び込んだ所から水しぶきが上がった。
春木は櫓をつかんだまま固唾をのんで海を睨んでいる。

一分、二分、三分…やがて水面が揺れ動いて、
金竜の黒い頭がぽっかりと浮かび上がってきた。

「凄いぞ、ここは」
次の瞬間、
「わあっ」
と歓声をあげたのは春木である。
金竜の手にしっかりと握られているのは、
さっきとは比べものにならないくらい巨大な海老だった。
春木は自分の肌着を脱いで、袖口や襟穴をしばりつけ、
その中に海老を押し込んだ。
生きんとして、激しくはねる海老を見ると、
彼自身の心臓がびくびくと躍動した。
久しく感じたことのない喜びがこみ上がってきて、
とめようとしてもとまらなかった。

「寒い、寒い。酒がないと凍えてしまいそうだ」
「じゃまた出なおそうじゃないか、
身体をこわしちゃつまらんからな」
「いや、もう少しがんばる。
がんばって帰りに一杯やれるだけとるんだ」
そう言って、金竜はふたたび海底に姿を消した。

その日は結局、十匹ほどつかまえただけであるが、
二人はまるで百万長者になったように元気づいた。
帰りに魚市場のある香港仔に出て、それを叩き売ると、
市場のすぐ近くにある居酒屋にとび込んだ。

「おい、酒だ。酒を持って来い」
酒でさえあれば、どんなものであろうともよかった。
給仕が酒瓶とコップを持って来ると、
注ぐのももどかしそうにいきなりぐっとのみほした。

「うーむ、うまい」
と金竜は満足そうに唸り声を立てた。

長い間断酒をしていた後だから、酔いはたちまちまわってくる。
金竜の顔がみるみる関羽のように真赤になった。
酔っ払うと、いっそう気が強くなり、声を大にして怒鳴り出した。

「おい、けちけちせんで、もっと持って来い」
テーブルの上に並んだ酒瓶を見ると
春木は勘定のことが急に心配になって、
せっかくの酔いがさめてきた。
しかし、金竜は騎虎の勢いだから
とめたところでとても耳をかすまい。
こんな時はこっちが先に酔いつぶれたふりをするに限る。

やがて机にうつ伏せてしまった春木をみると、
「おいおい。
何だ、これくらいでくたばるなんてだらしがないぞ」
金竜は酔ったようでも気はいたって確かである。

「これから家までまだだいぶ遠いんだから、
しっかりせい、しっかり」
「俺あもう駄目だ。もう動けねえ」
「莫迦なことを言うな。さ、さ、腰を上げた」

どうやら勘定はたりたらしい。
金竜の肩に支えられて外へ出ると、
春木は漁船の溜りになった海岸をバスの停留所まで歩いた。
酔いがしだいにまわって、いい気分だった。
大きな、白い月が林立するほばしらの上に出ていて、
夜の海が明るい。
その月を見つめていると、
春木の心に故郷のことが浮かんでくる。
なんとなく感傷的に流れそうになる。
この傷つきやすい心を春木は、
意識的に抑制しようしようとするのだが、
物ぐるおしいノスタルジアが、
どうにも処理できない強い潮になって襲いかかってくる。
いくら思い出したところで、
もう二度と見ることのできない故郷ではないか。
いや、俺にははじめから故郷なんぞあるものか。
俺はかりじゃない。
どだい、人間に故郷があってたまるものか!

「明日は酒を用意して来るんだ。
そうしたらモリモリ働けるぞ」
金竜の声には張りがあった。


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2012年7月6日(金)

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