中国株・起業・人生相談・Q&A-ハイハイQさんQさんデス-邱 永漢

「生きる」とは「自由」とは何か

第三章 海の砂漠(1)

その2

この頃では、歩くことが彼にできる唯一の楽しみになった。
時間がありあまりすぎるので公園に行くまでの間や、
公園に坐っていることにあきあきすると、
まるでのら犬のように、街の中をぶらついた。
そのおかげでいろんな思わぬ知識を得たこともある。
たとえば、デパートでも値切ることができるとか、
九竜城の魚の値段は中央市場よりも
かえって安いといったごときである。
しかし、そんなことがなんの役に立つだろうか。
さきだつものは金で、金のない人間が
いくら努力してみたところでどうにもならないのだ。

この日いつものように、放心状態で、
公園のベンチに坐っていると、
彼のそばを五、六人の男が賑やかに笑いながら通りかかった。
と、彼らの中の一人が、突然、
日本語と福建語をちゃんぽんに使って、
他の者に話しかけるのが聞こえた。

「あっ」と彼は思わず叫びそうになった。
台湾人だ。
台湾人に違いない。
そう思ったとたんに懐かしさがこみ上げてきて、
彼はいきなりベンチから立ち上がると、
つかつかとそれらの人々の所へわって入った。

「あなたたちは台湾から来たのですか?」
相手はびっくりして彼のほうを見つめた。
その中の、身体の図抜けて大きい、
頑丈そうな男が真先に口をひらいた。

「いいところで台湾人に会ったぞ。
俺たちは台湾から来たんだが、
実は言葉がチンプンカンプンで困っているんだ」
春木が台湾人であることがわかると、
彼らはたちまちその周囲に集まった。
開襟シャツを着た別の男が言った。

「この人に聞いてみたら、どうだろう。
俺たちは土地に不案内で、いろいろ困っているんだが、
ひとつ一緒に宿まで来てくれませんか?」
「そうだ。そうしてくれないかな」

一行の者は船乗りで、いま、西環(サイワン)の海岸通りにある
宿屋に泊まっているという。
よく聞いてみると、彼らは十日ほど前に
一隻の半密輸船を運転して台湾から香港へ着いたばかりである。
半というのは、ある国民党の将軍が大陸にいる難民救助を名目に、
ふだん厳禁されている米を積んで
堂々と基隆港(キールン)を出帆したからである。
米の値段は香港側が台湾より倍以上も高いので、
香港に到着すると、将軍の懐中に大きな金がころがり込んだ。
ところが、将軍の計画は悪辣をきわめ、
船をドックに入れるからといって、船員を現在の宿へ移すと、
船員が香港見物に夢中になっている間に、
船を他人に売り渡してさっさと姿を晦ましてしまったのである。

「二、三日前に、ドックに行ってみたら、
その船の影も形も見えないんだ。
ドックの者にきいたら、
どこかフィリピンあたりに出て行ったというじゃないか。
昔、日本軍が上陸用舟艇に使っていた船で、無電装置はあるし、
全速力出すと、十六ノットぐらい走るし、
密輸にはもってこいなんだ」
と大男が言うと、他の者がそれをうけついで、
「彼奴ははじめから香港で売りとばす腹だったんだ。
でなきゃ、こんなに素早く話が成り立つものか。
その船が自分のものならまだいいが、チャーター船なんだぜ」

「いまさら愚痴をこぼしたって仕方がないよ。
それよりどこかもっと安上がりの所へ移らなくちゃ、
明日にも破産するぞ」
彼らの泊まっている宿屋は、
春木も何度かその前を通ったことがあり、
海岸通りでは一番安い所だが、それでも一泊六ドルはとられる。
これではとてももちこたえられるものではない。
口々に窮情を訴えるので、春木は対策を考える旨を約して、
いったん、家へ引き揚げた。
その翌日に、六人の男が彼の住んでいるバラックヘ
引き移ることになったのである。

最初に春木と言葉を交したあの大男の名前を
楊金竜(ようきんりゅう)といった。
澎湖島の生まれで、身体が大きいだけの野人のふうがあり、
窮地にあってもたいして心配そうな顔も見せず、
言うことからしてしごくのんびりしている。

「香港は別嬪が多いな。
このまま国へ帰るのがもったいなくなったよ」
「しかし、香港ぐらい住みにくい所はないぜ。
金がなけりゃ海に投身自殺でもするよりほかない所だからね」
金竜と一緒になると、
春木はつい老李のような口をきいている自分を発見して驚く。
しかし、金竜の反応はまた違ったものだ。

「なあに、金なんざあ、またどうにでもなる。
俺あしばらく香港におりたくなった。
どこか船会社で傭ってくれる所はないかな」
「船員の口もなかなか難しいらしいぜ」
「しかし、俺は経験も長いし、
水の中にもぐることだって相当なものだぜ。
船底の掃除のような仕事なら誰にも負けん自信があるな」
「ほオ、もぐりが専門か」
「人聞きのわるいことを言うな。
俺のように澎湖島に生まれた者は子供の時から海中の海老や
貝をとって、大きくなったんだからね。
自慢じゃないが、
他人にはちょっと真似のできない芸当だぜ」
それを聞いたとたんに、春木は「しめた!」と思った。
西洋料理に使う伊勢海老は香港では相当に高値なはずである。
土地の漁民は潜水術の心得がないので、
手で釣ることしか知らない。
金竜をうまく使えば、いい仕事ができそうだと思うと、
もうその日から水汲みをするのがばかばかしくなった。

海の水はまだ冷たかったが、ある日、春木は金竜を連れて、
香港島の太平洋岸にある石澳(セツオウ)
という所へ出かけて行った。
岩の多い海岸の小高い丘の上に、
赤い屋根の洋館建の別荘がずらりと並んでいる。
このあたりは香港に住む富豪たちが夏の間、
水泳に来る所で、波も穏やかであるが、
点々と島影が見えるので眺めも美しい。
さすがに水泳に来る物好きはまだいないが、
伊勢海老がとれると聞いては、
じっとしておられない金竜である。
服を脱ぎすてると、早速、海の中へ入って行った。
岩の間を泳いで、何度か海面から姿を消したが、
やがて海中から首を出すと、
「おーい」と叫びながら、手をたかだかとさし上げた。

すると、見よ、その手には
一匹の伊勢海老が握られているではないか。





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2012年7月6日(金)

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