中国株・起業・人生相談・Q&A-ハイハイQさんQさんデス-邱 永漢

「生きる」とは「自由」とは何か

第二章 密輸船(3)

その1

その翌日も大鵬は彼に一緒に行くように誘った。
昨夜、もう来るなと言われたばかりじゃないかと言うと、
いや、あれが彼奴の癖なんだ、
実際に行って、手伝ってやると喜んでまた相手をしてくれるよ、
と大鵬は平気な顔をしている。
しかし、春木は行く気になれなかった。
というより行くだけの体力がなかった。
昨夜、いちどきにご馳走をかきこんだために、
胃腸がびっくり仰天して、明け方から腹を下しはじめたのだ。
出かけるどころか、働きにさえ出られない。
堕落した胃腸に活を入れるのは、一回でもう充分である。

結局、ひとりで出かけて行った大鵬はその夜遅く、
なにやら大きな包をかかえて帰ってきた。
中を開くと、路傍で売っているアメリカの軍隊用掛布団が
一枚出てきた。
暗いランプの下で、それにさわった時、
春木は思わずぶるっとふるえた。
もう冬が近いのだ。
冬は声も立てずに襲いかかろうとする猛獣のように
すぐ近くまで押し迫ってきたのだ。

「今日は恥ずかしい思いをした」と包紙をたたみながら大鵬は言った。
「どうしたんだ?」
「ぱりっとした服装をして、こんなものを持っちゃ君、
せっかくの紳士が台無しじゃないか」
それを聞くとさすがの春木もあきれ果てて、
あいた口がふさがらなかった。
女中や給仕よりもっと惨めな水汲み苦力をやって
辛うじて生命を支えていても、
大鵬にはまだ虚栄心が残っているのだ。

「老洪にもらったのか?」
「いや、十ドルもらって今日、帰りしな
深水捗(サムスイポオ)の盛り場で買って来たんだ。
背広なんか着込んで、盛り場でこんなものを買ったものだから、
皆にじろじろ見られたよ」
「莫迦なことをいうな。
蒲団が買えただけでも有難いじゃないか。
俺なら大威張りで持って帰ってくる」
「そりゃ君は別だ。君は心臓が強いものなあ。
老李と一緒に盛り場で“のしいか”を売った経験もあるしさ」
「水汲みとどれだけ違いがあるんだ」
「もちろん違いがあるさ。
ここでは誰もが水を汲んでいるし、
その中に混じっていても少しも目立たないもの。
こっそり貧乏をするのはいいが、
貧乏を人前にさらけ出してみせるのは厭だよ。
いい男が素っ裸になって
公衆の面前を歩かされるようなものじゃないか」
「なるほど」
「君の服を持って帰って来てやったよ」
そう言って、大鵬は新聞紙にくるんだ春木の服を投げ出した。

「君が、食いすぎて下痢を起こしたと話したら、
洪の奴、心配していた。大事にするように伝えてくれって」
「美人には会ったかい」
「なにを言ってるんだい」
「美人からは伝言がないのか」
「莫迦も休み休みに言えよ。
あんまり食べすぎて寝込んでしまったなんて
恥ずかしくて言えるものか。
君の品性を傷つけるようなことは頼まれたって言いやしないぜ」
「老洪はいつ出発するかきまったかね?」
「いつとはっきり言わないが、もうすぐらしいぜ。
おかげで今日は一日、ペニシリンやストマイを詰める
手伝いをさせられて、休むひまもなかった。
飯も船務行のすぐ近所で簡単に食べただけだ」
「で、明日また行くのか」
「もちろん行くよ」

その翌日、大鵬は昼少し過ぎると帰ってきた。
今日は奥さん孝行をするとかで、添財は夫人同伴で出かけたという。
「彼奴も忙しい男だ。
昔の蒙古人みたいに飯の食い溜めをして、
いざ戦闘開始となると一週間でも二週間でもがんばるからね。
海のジンギスカンだよ、彼奴は」
大鵬は添財に絶大な信頼をよせている。
その証拠にしきりと彼をほめそやした。
いまに彼が密貿易で大をなしたら、
自分を引き立ててくれること間違いなしと確信しているのである。

「僕が出世したら、そり次は君の番だ。
僕もこれで二年近く水汲みをやっているんだから、
もうそろそろ卒業してもいいはずだからなあ」

その翌日大鵬が塩魚屋の二階へ行った時は、
海のジンギスカンはもう遠征に出かけた後だった。
彼は美人に迎え入れられて、昼飯のご馳走にあずかり、
すっかり有頂天になって帰って来た。

「君に言われるまで全然気がつかなかったが、
今日よくよく見てみたら、なるほど絶世の美人だな。
ことに笑った時の、あのこぼれそうな眼の美しいこと。
女を見る眼じゃ君もなかなか隅におけないね」
「そりゃそうさ。ところで女にもてる第一の秘訣を知っているかい?」
春木が思わせぶりな口をきくと、
「なんだ。なんだ」
と大鵬は身体を乗り出してきた。

「誤解しないように念を押しておくが、
美男子だということじゃないぞ」
「じゃ、なんだ。金があるってことだろう」
「そればかりでもないさ。金があれば、女はついて来る。
これは人間はパンなしに生きて行けぬというのと同じく
永古不易の哲理だ。
でも、人間はパンのみにて生きる者に非ずという真理もあるだろう。
女は金にのみついて来る動物じゃないよ」
「じゃ、愛情か?」
「莫迦な!」春木は白い歯を出して意地の悪そうな笑いを浮かべた。
「王子様と王女様の恋物語じゃあるまいし、
ふざけたことを言うもんじゃない」
大鵬はすっかり戸惑ったらしく、
おかしいくらい、何度も眼の色を変えた。

「なにもそうもったいぶることはないだろう。
早く言ってしまえよ」
「じゃ教えてやろうか。
簡単なことだが、でも一番肝心なことなんだ。
できるだけ女に親切にすることだよ」
「なんだ。そんなことなら僕だって知っている」
「そう思うだろう。ところが、女に親切にすることぐらい
難しいことはないぜ。
たとえば、愛していなくても、私は貴女を熱愛しています、
なんて芝居を上手に打たなくちゃならないんだ。
いいか、女が足の裏をなめてくれと言ったら、
なめたくなくてもなめるんだ。
背中をさすってくれと言ったら、さすってやるんだ」
「そんなことは少しも苦痛じゃない。
僕なら喜んでやるよ」
「だから、君にならできると僕は言っているんだ。
この人なら私のためにどんなことでも犠牲にするに違いない、
と相手に思い込ませてしまうんだ。
相手にそれだけの信頼感を抱かせれば、
あとはもうこっちのものだ。
いったん思いつめたとなると、
どんな危ない芸当だって女はへっちゃらだからね」
「それもそうだな。
最初はやっぱり男のほうが積極的でなけりゃ駄目だろうな」

以前から大鵬は人一倍、自分の服装に気をつかう癖があったが、
それ以来、服装に関してはますます神経質になった。
銀行員などというお客相手の商売をしていた時代の
名残といえばそれまでだが、
このバラックで食うや食わずの生活をしていても、
彼は最後まで一張羅(いっちょうら)の背広を手放さなかった。
もう相当くたびれてはいるが、赤革の靴も持っているし、
ネクタイも一ダースぐらいはある。
この世の中において、もし生命の次に大事なものがあるとすれば、
それはトランクの中に行儀よく蔵い込んである、
これら紳士には欠くべからざる一揃いの身の回り品であろう。
昔の武士が痩せても枯れても、鎧兜を売らなかったように、
こうして一旦緩急に備えている点では、
大鵬はみどころのある紳士であるといわなければならぬ。





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2012年7月1日(日)

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