中国株・起業・人生相談・Q&A-ハイハイQさんQさんデス-邱 永漢

「生きる」とは「自由」とは何か

第一章 自由の虜(3)

その2

「形あるものは皆壊れるよ。
壊れてしまったっていいじゃないか。
しかし、どんなに壊そうと思っても壊れないものがある。
それは人間の欲望だ。
生きているということはずいぶん厄介なことだぞ」

そう言って老李は苦笑した。
意外に諦めがよいので春木のほうがかえって驚いたくらいである。

”のしいか”売りはそれから約一週間ほど続いた。
その間に二度七輸をなくしたが、
成績はまずまずといわねばならない程度だった。
つまりたいして金にもならないが、
かといってやめるには惜しかったのである。
ところがある日、どういうわけか、
突然なんの予告もなしに、
警察の巡邏車が盛り場に乗り込んできた。

盛り場の中はたちまち上を下への大騒ぎになった。
あまりにも急な出来事なので、
老李が気づいた時、警官はすぐ眼前に迫っていた。

「来たぞ。逃げろ」
後ろ向きになって七輸の火をおこしていた春木の肩を
どんとつくなり、老李は走り出した。

春木もそのあとについていきなり走り出せばよかったが、
ふと”するめ”のことが頭にひらめいた。
それをかかえるためにふりかえったとたんに、
足先に何かがぶつかった。
見ると地面に投げ出されたローラである。
ローラを素早く小脇にかかえ、
もう一方の手で”するめ”の包を持ちあげて
駆け出そうとする彼の襟元をぐっとつかまえた者がある。

「おい、こっちだ。こっちだ」
驚いてふりかえると、それは図体の大きな山東人の巡査だった。
つかんだ手をふりきろうとしてもがくと、
春木の着ているシャツがぴりっと裂けた。

「こら、じたばたするな」
恐ろしい力で手首を抑えられた。
春木は観念した。
盛り場の中は狼藉の跡も生々しく、
逃げ遅れた人々のわめき声や泣き声が聞こえてくる。
ふと見上げると、目の前に蕭頓球場の金網の垣根が拡がっている。
その向うで中学生らしい少年たちが、
楽しそうにフットボールをやっている。
老李はおそらくあの垣根を乗り越えて、
向うへ逃げたに違いない。
なぜならば、巡査どもは両側から
挟撃態勢をとってきたからである。

少年たちは行商人狩りにはてんで興味がないらしく、
こちらをふりむく様子もなかった。
その浮き浮きした無邪気な姿を見ていると、
春木は巡査につかまえられているのも忘れてしまった。

気がついてみると、
蕭頓球場の金網がいつの間にか巡邏車の金網になっていた。
捕えられた人々の中に混じって、
彼は巡邏車の金網の中に坐っているのだ。
金網の中から見ていると湾仔の街は
走馬燈のように次から次へと後ろへ走り去って行く。
立ち並ぶ高層建築の騎楼のガラス窓に夕陽が反射して、
それがひどく感傷的だった。

いかめしい服装をした警官の運転する巡邏車は
間もなく警察署へ到着した。
証拠物件として抱えさせられたローラとするめを没収され、
身につけているこまごまとしたものや
パンツの紐まで引き抜かれて、
ひとまとめに番台の上に置かされると、
春木は動物のように鉄の檻の中へ追い込まれた。
女や子供たちは警察署に入ってからもまだ泣きじゃくっていたが、
男たちの中には常習犯もあるとみえ、
番台の上に坐っている英国人のインスペクターの前に行くと、
何やら話しかけた。
それが保釈の交渉であることは間もなくわかった。
番台の上の英国人はまた来たかといった
しごく慣れた微笑を浮かべながら、
自分の前に拡げてある大きな保釈金預り証にサインをすると、
二十ドルとひきかえにその紙を渡す。

三人ほどの商人がこの領収証を四つに畳んで懐中にしまい込み、
片手をあげて、「バイバイ」と言いながら、
さっき入って来た扉を押して外へ出て行った。

ところがその二十ドルを春木は持ちあわせていなかった。
昨日と今日の売上げを合わせた二十数ドルの金は
老李の懐中にある。
老李さえ来てくれたら、いますぐにここから出られるのに、
と思いながら、また急に老李のことが心配になった。

一緒に連れて来られなかったところをみると、
老李は無事逃げおおせたはずだ。
しかし、自分がここにつかまっていることを
彼は知っているのだろうか。
いつかの茶楼で二時間待っても三時間待っても
自分が現われなかったら、
そのくらいのことには気づいて警察署まで来てくれそうなものだ。

いつか陽はとっぷり暮れて、
蒸し蒸しと暑い夏の夜が来たが、
老李はついに姿を見せなかった。
春木は待ちくたびれ、
留置所の檻の中で眠りにおちてしまった。

その翌朝、春木は他の行商人たちと一緒に
法廷へ引きずり出された。
そんな経験は二十六の今日まで一度もなかっただけに、
彼の胸は恥ずかしさでいっぱいだった。
戦後の台湾では道徳や犯罪に対する考え方が
昔とはよほど変貌をきたし、
ことに政治問題で国民党に捕えられることは
一種英雄的な尊敬の眼をもって見られさえするのだが、
その追及の手を逃れた彼が現実に引っ張り出された理由が
不法行商とあっては顔をあげる勇気もなかった。

しかしながら、彼等を告訴する英人警察官の口調も
紋切り型であり、それに聞き入っている壇上の裁判官も
何の興味もなさそうな顔つきだった。
告訴の申立てが終わると、
裁判官はそこに立たされた数十人の犯人に対し、
老幼男女の区別なく
「二十ドルの罰金、もしくは三日間の徒刑」を申し渡した。

すでに法廷には行商人の縁故者が多数集まってきている。
昨夜のうちに奔走して金をつくってきたのであろう。
二十ドルを支払うと、大部分のものがそそくさと帰って行った。
だが、今日になっても肝心の老李は影すらも見せない。
まんざら香港の事情を知らないわけでもないのだから
当然ここに来ていなければならないはずだ。

恥ずかしさはしだいに昻じて、
激しい怒りに変わりはじめた。
裏切られたと思うよりほかなかった。
たった二十ドルで仲間を売る男なのだ。
逆さにしてふってもあの男には二十ドル以上の値打ちはないのだ。
向うがその気なら、こっちにも覚悟がある。
よし、いまにみていろ。

春木を乗せた金網張りの護送車は、
ハッピーバレーと呼ばれる競馬場の脇の坂道を通って、
香港島の裏側にある赤柱監獄(スタンレイゼイル)に向かった。
山道にさしかかると、
金網越しに香港の港が一望のもとに見下せる。
青い、青い海には波を蹴って進む汽船の姿が
くっきりと浮かんでいる。
船尾の旗の色はフランスか、それともデンマークか、
その形があまり小さいのではっきりした見分けがつかない。
おおかたサイゴンかシンガポールへでも行くのだろう。
どこだっていい。
船も人も行きつく所にしか行きつかないのだ。





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2012年6月24日(日)

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