■QさんからのA(答え)
小説というのはあまり役に立たないことを長々と書く事なんです。
昔は言論の自由がなかったので、
まともにものが言えなかったために、小説という形を借りて、
心の中のモヤモヤを発散させたんです。
たとえば「若きウエルテルの悩み」なんていう本が
一世を風靡したことがありますけど、
それは恋愛の自由がなかった時代のある種の社会批判なんですね。
ですから多くの人がそれを見て涙するということは
小説という形態の表現方法に訴える力があったからです。
いまではテレビの台本でしかならないような、
どうでもいいような小説ばかり
世の中にたくさんあるようになってしまいました。
その分だけ小説の威力がなくなったと言ってよろしいと思います。
私自身は若い頃に小説を書きましたが、
その後日本の国が経済的に発展するプロセスで、
経済に対するみんなの関心は小説以上に強くなっています。
その一方で経済のことを書ける人が少ないものだから、
私のところに経済関係の注文ばかりが来て、
デパートをやっているつもりが、
いつもまにか金銭ケースの所だけ
繁盛するようになってしまったんです。
いまでも時々、新聞社や雑誌社から
小説を書かないかと誘われてますが、
小説を書く時と、実務的な物を書く時は
生活の態度そのものを変えなければなりません。
電灯が暗かったとか明るかったとか、
誰がそこを通ったとかそんなようなことを書く生活は
そういうことが頭の中にいっぱいになっていないと出来ないんです。
どこの株がどうなっているかなんていう話とは全然違いますから、
一人でいくつもの役割を同時に果たすことはできません。
いまの私は頭の中に
こういう小説を書きたいという構想はありますけど、
だんだん年齢にも影響されて、
いまさら一生懸命恋をしている話なんか
本気になって書けないということもあります。
むかし私の小説を読んでくれる人たちの中には
小説を書けばいいのに、金の話をするのは邱永漢の堕落だ、
なんて手紙をくれる人もおります。
構想はあっても、たぶん死ぬまでに
また大河小説を書くことはないんじゃないかなあ
と思っております。
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