第68回
自分で守る長生き三原則
話は脇道にそれたが、年をとると、
どうしてもその分だけ墓場に近くなる。
墓場が近くなるとそれだけ人は死ぬことを恐れるようになる。
それでもやっばり死ぬ時がついにくる。
どうせ死ぬものなら、上手な死に方がある筈である。
そう思って「死に方、辞め方、別れ方」 (PHP研究所刊)
という本を書いたことがあった。
本のタイトルにいきなり「死に方」ときたら、
読者が敬遠するんじゃないか、といわれた。
たしかにそういう傾向はあるとみえて、
数多い私の著書の中では
ベスト・セラーズというわけにはいかなかったが、
それでも手堅い売れ行きは示している。
私にいわせれば、「死に方」とはとりもなおさず
「生き方」のことである。
終点に「死」があって、「どういう死に方をしたらよいか」
と考える人は、死ぬまでにどう生きたらよいか、
を考えないわけにはいかない。
年をとると、病気がちになって病院通いばかり、
というのもつまらないし、飛ぶ鳥もおとす勢いだったのが
すっかり世間から忘れられてしまうのも淋しい。
総理を辞めた人が政界に影響力を残したがるのは
人情の然らしめるところであるが、
それができるためにはそれなりの「打つ手」も必要になる。
ぼんやり年をとっているわけにはいかないのである。
人は皆、昔から年をとっているわけではない。
はじめて年をとるので、
「どうやって年をとればよいのか」がわからない。
見苦しい年のとり方はしたくないと思っても、
いざその火中に入っていくと、西も東もわからなくなってしまう。
そこで、自分がまったく年をとって
分別がつかなくなる以前に、
せめて自分にこれだけは守らせたいと思う規則を
自分でつくっておく必要がある。「孫の話をしない」とか、
「同じ話を、同じ場面で二回くりかえさない」とかいうのも、
細かくいえばその中に入るが、もっと原則的なことになると、
私の場合は、
(1)自分が死にたいと思う年齢を自分できめる。
(2)それまで現役で仕事をする。
(3)元気で仕事ができるように体調を整える。
以上のことが頭にあれば、財産対策も、あるいは、
後継者の養成も、自らできあがってくるのではあるまいか。
年をとってくると、死にたくなくなるのが人情である、
といったが、本人も長生きしたがるし、
世間も長生きすることをおめでたがる傾向がある。
しかし、長生きすることがそんなにしあわせなことであるか、
ということになると、私には異議がある。
ついこの間も講演先で私に挨拶をした人が、
「自分の親戚には百歳をこえた人がある。
先生もどうか健康に気をつけて長生きをして下さい」といった。
その人は、長生きをすることが人生のしあわせであり、
誰しも長生きしたがると思い込んでいるようだった。
「百歳まで生きることがどうしてそんなにいいことなんですか」
と思わず私はやりかえした。
「百歳すぎても、世間の出来事に好奇心を失わず、
かつ知能に衰えを見せなければ、あるいは、
おめでたいといえるかも知れません。
でも、平均寿命をこえてくると、
人間はだんだん惚けてくるものですよ。
経済能力も失って、ただ生きている
ということにどれだけの意味があるのですか」。
相手がびっくりして、目を白黒させるのが私にもわかった。
でも、私はやめなかった。
それは相手にいっていることではなくて、
自分自身にいいきかせていることでもあったから。
「ですから、あんまり長生きしても、
ロクなことはありませんよ。百歳とか、
百二十歳まで生きて、仮に心身ともに元気であったとしても、
平均寿命が七十六歳とか、八十歳とか、であるということは、
息子や娘にも先立たれて一人ぼっちになるということです。
ひょっとしたら、
孫の葬式にも立ち合うことになるかもしれません。
年をとって何がイヤといって、
孤独になることくらいイヤなことはありません。
長く生きるということは、
孤独になる時間が長くなるということです。
仲のよかった友達はみんな死んでしまいます。
友達の葬式にばかり行って、
自分の葬式の時は誰も来てくれません。
だから長く生きるということは決して嬉しいことでも、
おめでたいことでもないんですよ」
|