第60回
ベスト・セラーズの値打ち
だから、活字に親しむかどうかの基準の中に新聞は入ってこない。
週刊誌もそれに近い。
月刊誌になると、少しはましだが、
それでも活字を人類の遺産とすれば、
動産と不動産の間の中間的存在に位置づけたらいいだろうか。
私は人間の分類をする尺度のーつとして、
本を読む人と本を読まない人があると考えている。
その場合の本とは「単行本」のことである。
たとえばどうやったら麻雀が上手になるかという本であってもよい。
またボディビルや美容や料理の本であってもよい。
本を手にとって読みふける習慣のある人は、
そうでない人と区別されてよい人生態度を持っている。
昔から中国人は知識階級のことを「読書人」と呼んでいるが、
これをみても、この分類の仕方が昨日今日にできた
単なる思いつきでないことがおわかりいただけるであろう。
では単行本であれば何でもよいかというと、
これにももちろん、条件がある。
「人間を知りたかったら、
その人のつきあっている友人を見よ」といわれているが、
「人間の品性や知識を知りたかったら、
その人の本の選び方を見よ」ということもできる。
人間の関心は狭い範囲に集中していることもあれば、
広範囲にわたっていることもある。
その関心の在り方によって選ばれる本の種類は
人それぞれ違って当然だが、
いわゆるベスト・セラーズは単行本の中に
入れないほうがいいのではないかと私は思っている。
私自身、ベスト・セラーズに属する本を
しばしば書いているので自己矛盾も
はなはだしいと思われるかもしれないが、
私の書く本も含めてベスト・セラーズは読んでいて
あまり参考にならない。
というのも第一に誰にでも賛成されるような内容の本に
先見性や個性があるとは思えないからである。
多くの人々が賛成できるということは、
人々の過去の体験とその体験から生み出された
固定観念が受けつけることのできる
範囲にあるということであって、
スーパーやデパートで売られているストッキングや
ハミガキとそんなにへだたりのあるものではない。
第二に著者が意図してそういう本が書かれた場合も
ないではないが、
たいていのベスト・セラーズは出版社によって
一山あてるためにプロデュースされたものが多いことである。
一時期、よく売れた新書版のベスト・セラーズに至っては、
著者の名前がそこに印刷されているというだけで、
目次も出版社によって組み立てられたものなら、
文章も本人が書いた原型のあとかたもなくなっている
というのが多かった。
それは、その時代の人女の関心事に焦点を合わせて
編集された雑誌と同じ性質のものであり、
執筆者がたまたま誰かの名前になった雑誌とみてよいだろう。
したがって、ドッと何百万冊も売れたりすることはあるが、
ブームがすぎると一顧だにされない。
それこそ三文の値打ちもないものと化してしまう。
こんな代物は寸暇を惜しむ生活をしている人が
かかわりあっているべき性質のものではないのである。
要するに、テレビを見るにしろ、
本を読むにせよ、あたえられたものに甘んじているようでは、
自分がどんな位置にいるのか見分けがつかなくなってしまう
心配があるのである。
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