死ぬまで現役

老人を”初体験”する為の心構え




第61回
下り坂という自覚はない

地形に登り坂と下り坂があるように、
人生にも登り坂と下り坂がある。
登り坂を登っている時は、「これが登り坂だ」
という意識はあまりない。まだ年も若いし、体験に乏しいし、
困難が伴うのは当たり前で、
自分の人生はそうやって切りひらいて行くものだと
自分にいいきかせることができるからである。

ただし、どこまでが登り坂で、どこからが下り坂かは、
人によって違う。
また意識の持ち方によっても違う。
体力とか、性能力とかいったことなら、
恐らく成長盛りがピークであろう。
スポーツ選手や相撲取の活躍する年齢をみれば、大体の見当がつく。
スポーツには、体力のほかに技というものがあり、
それを体得するのに一定の習練期間が必要になる。
そうはいっても、技を磨くには一定の制限があって、
磨いている間に体力の衰えがみえてくるようだと、
もうそろそろおしまいである。
体力のピークはそう長くは続かないので、
スポーツ選手の「選手としての生命」は短いのが普通である。

体力のピークはすぐに来てしまうが、
人生を生きて行く上の智力や能力はもっとずっと長持ちする。
健康かどうかとも関係があるし、
生活態度ともかかわりがある。
また運不運や環境のよしあしにも左右される。
その上、医学の発達によって平均寿命が約五〇%も延びたので、
下り坂に入る時期もかなり先に延びている。
しかし、身体は元気で、同じようにメシを食い、
同じように働いていても、「この人はもう行きどまりだな」
「年のわりにえらい老け込んだ物の考え方をする奴だな」
とこちらが思わず相手の顔を覗き込んでしまいたくなる
年のとり方をする人がある。

「人のふり見て我がふりなおせ」というが、
そういう人を見るたびに、
「自分は絶対そうはなるまい」と自分にいいきかせる。
久しぶりにあった友達が盛んに孫の自慢話をしたり、
三分もしないうちにまた同じ話をくりかえしたりするのをきいて、
「なるほど老いのくりごととはこういうことをいうんだな」
と合点が行く。
自分がそう思う以上、
自分も同じことをやるわけにはいかないから、
孫の話と老いのくりごとはできる限り避けるように心がけている。
たまに孫の消息をきかれても「一人います」とか、
「女の子です」とか、
二言三言簡潔な返事ですませることにしている。

しかし、それほど気をつけても、
「寄る年波に勝てない」というのが人生である。
前にも述べたことがあるが、私は自分が五十五歳になるまで、
年をとったという意識がまるでなかったし、
まして「いよいよ下り坂にさしかかったらしいぞ」
という自覚もなかった。
比較的身体が丈夫だったせいもあるが、
仕事をたくさん抱えていて、
落ち込んでいる余裕がなかったせいかもしれない。
五十五歳の時に、多分、精神的な焦りと
油断が生じたせいであろうか、
俄かに全国区の参議院選に立候補する気を起こして
周囲の者に迷惑をかけたが、
落選のショックでいささかがっくりきた。
しかし、この時も自分で仕事を次から次へと新しくつくり出して、
超多忙な時日を送るようになったので、
やがて年齢のことは忘れてしまった。





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2015年4月10日(金)

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