第59回
新聞や雑誌のない生活もある
もちろん活字が伝える世界だけが世界ではない。
活字の世界に埋まって生活をしていると
つい新聞や雑誌なしでどうして生きられるのかと
不思議に思えてくる。
しかし、外国旅行に出かけて、
日本語の新聞の手に入らないところに行くと、
新聞を一週間も二週間も読まないようなことが起こる。
ニュースから一切閉め出されて、
今頃、日本では何が起こっているのだろうか、
株は上がっているのか下がっているのか、
あれこれ想像してみる。
ヨーロッパやアメリカなら、
英語の新聞を拾い読みをしても今世界で何が起こっているか、
大体わかるが、アフリカや印度に行ったら、
道を歩いている人だって、お土産物を売りにきている人だって、
本どころか、新聞だって読んでいるとはとても思えない。
それでいてちゃんと生きているのだから、
活字症になっている人々は時どき、
活字のない地域を旅行してみるのも、
自己反省の材料になって案外、役に立つ。
世の中は私たちが、「こうでなければならない」
ときめてかかっていることでも、
他の国に行くと必ずしも
その通りになっているとは限らないのである。
しかし、国へ帰ってきて、再び日常生活に戻ると、
アフリカやボルネオの山の中の人たちと
同じ生活を営むわけにはいかない。
テレビも見るし、フランス料理も食べに行くし、
相撲や野球も見に行く。
ゴルフに行かない時は家にいて
本や雑誌のページをめくっている。
文明社会では選択の自由があって、
一人の人間が選択できる生活のスタイルも
あれこれと種類は多いし、変化も多いのである。
そういうなかにあって、
本を読む読まないは本人の自由であるが、
新聞やテレビのニュースを見ない人はまずいない。
してみるとニュースは見たりきいたりするものであって
読むものではなさそうである。
新聞やテレビをつくっている側は、
自分たちこそ個性の固まりのような錯覚を起こしがちであるが、
私にいわせると、どれも似たり寄ったりである。
個性があるとすれば、インテリぶっているとか、
野次馬根性がとくに旺盛だとか、
人に鼻つまみにされる癖がみられるというくらいなものである。
いずれにしても新聞づくりは
翌日になればもはやニュースでなくなってしまっている
生命の短い出来事のあとを追っかけているだけのことで、
それに解釈を加えようとすると、
途端に執筆者の無知や品性を露出させるだけのことになって
かえって人々の反感を買うことが多いのである。
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