第58回
自分が読む本は自分で選ぶ
次は活字である。
活字文化が斜陽化しているという声はよくきく。
しかし、新聞社の副業としてはじまった、
テレビが普及したことによって
新聞の発行部数が減っていないし、
新聞社が店じまいをしてしまったという話もきいたことはない。
まして書籍や雑誌の出版が衰えてしまったという事実もない。
若い人が本を読む代わりにマンガか、
テレビばかり見ているという現象は
現に私たちの周辺にも見られる。
大学を出てもまだマンガ本を見ているオトナがいたり、
経済学の難解な本をマンガ本にしたらよく売れたという話もある。
しかし、これは本を読む階層が
テレビやマンガに移ったということではなくて、
昔は本も読まず、ただぽんやりしていた連中が
テレビやマンガ本を見ているというだけのことである。
マンガそのものが考えるマンガではなくなり、
テレビのーコマーコマを紙に書いてつなぎあわせた
新しいジャンルのものが誕生した。
だから、「これはテレビの親戚だ」
と考えたらわかりやすいであろう。
また本来なら経済の本など手にとることもなかった連中が
リモコンをいじっているうちに
経済の話に耳を傾けたりするように、
マンガ本にしてみたら、手にとって
パラパラとめくるようになったと解釈すべき性質のことであろう。
いつの時代でも「読書人」は国民の中の少数派である。
その少数派が新聞や週刊誌の氾濫によって
少しずつ数を拡大させているのが現代である。
私自身、新聞や週刊誌の常連執筆者の一人であるが、
新聞や週刊誌の大半の記事はニュースか、雑文であり、
人々の思考力に訴える文章は至って少ない。
あったとしても不徹底なものにすぎない。
それが月刊誌とか、単行本になると、
テーマをしぼって問題を提起し、資料を集め、論陣を張り、
読者の思考力や判断力に訴えてくる。
そういう出版物がふえることはあっても減る様子は一向になく、
本を読む人は自分でそれらの出版物の洪水の中から
自分の要求にかなった単行本や雑誌を選ばされている。
どんなに多忙な人間でも、
自分が読む本は自分で選ぶ。
たとえ秘書に選ばせて机の上に山と積まれた本に
片っ端から目を通す人でも、
本でさえあれば、何でもよいというわけにはいかない。
もちろん、雑誌や本の中にも娯楽を目的としたものがある。
実用書と呼ばれる料理とか、植木とか、
ペットの飼い方を教える本もある。
しかし、そういった本も含めて、
活字文化は人々の思考に訴え、人々に知識をあたえ、
行動や生活に指針をあたえる役割をはたす性質のものである。
人々の行動の基準となる指針は書物だけによって
あたえられるものではもとよりない。
経験によっても教えられるし、
先輩によっても教えられる。
しかし、そうした中にあって先人の遺産であったり、
現存する知恵者の知恵を結集したものが
書物の中にはおさめられている。
だからそれを利用することのできる人と、
それをまったく無視する人とでは、
行動の基準に大きな差が出てくる。
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