付加価値の創造によって日本の社会は過去の常識で測り切れないほど変った
資本主義のそうした社会主義化を推進するにあたって、最も鮮明に旗を振り、かつ実行に移したのは、戦後の日本であろう。戦前の日本にも、もちろん、マルクスの信奉者たちはいたし、左翼主導型の労働運動がなかったわけではない。しかし、これらの思想と運動は弾圧の対象になったし、人々から受け入れられなかった。国全体としても絶対君主制のきわめて非民主的な国であった。そんな国がどうしていきなり民主国家になったのか、それもきわめて社会主義的色彩の強い体制に切り変ったか、と首をかしげる外国人は多いに違いない。
一つには、敗戦によって今までの価値観を支えてきた心棒が折れて、国民の大半が放心状態に陥り、さしあたり頼りになる「メシのタネ」があるとか、強力に自分たちを引っ張っていってくれる「時代の指導者」がおれば、それを頼りにしたがっていたということが考えられる。もう一つには、マッカーサー元帥について占領下の日本に乗り込んできた施政官の中に、彼らの本国では到底、受け入れられそうもないような理想主義の持ち主たちが多かったということであろう。
平和憲法と呼ばれる、戦争を否定した他国に類例のない憲法が採用されたのもそうだし、最高税率九三%(国税七五%、地方税一八%)に及ぶ超高税率の累進税制が採用されたのもその一環とみてよい。平和憲法は、占領軍によって押しつけられるものといわれているが、その後、必要に迫られて自衛隊をつくる段になって大きな障害になったし、アメリカからの働きかけによって軍備を増強するたびにいつも憲法違反ではないか、と与野党間で争われる焦点ともなった。
もう一方の税制は戦後、インフレと財源不足に悩んでいた時期にアメリカの税制専門家シャウプの指導によってつくられたものであるが、当然のことながら、アメリカ式の所得税を柱とした直接税中心の税制であった。新税制を施行した当初の直接税と間接税の比率は五五対四五であったが、その後、直接税の税収がふえるスピートが早く、間接税は政治的な駆け引きの対象となって抑えられ気味だったので、全体の二○・一%までおちてしまった。
最近、消費税の新設をめぐって改めて直間比率が問題になっているが、シャウプ税制の採用以来、約四十年に及ぶ日本の税制をふりかえってみる限りでは、日本は直接税中心の税制の国となり、そうした税制を採用したおかげで、国全体が金持ちになっていく過程で、貧富の落差の少ない、階級対立のみられない、おそらくマルクスが夢にみたような、理想に近い社会になっていった。
かつて私は『ゼイキン報告』という本を執筆するにあたって、最高税率九三%に及ぶこうした税制を「嫉妬の税制である」と批評したことがある。日本が貧しさにあえいでいた終戦直後、立法に従事した役人も政治家も、低い所得に甘んじていた。そうした時代でも、石炭や繊維で大儲けをしていた一握りの人々がいたし、高利貸しやヤミ屋で俄か成金になった人々もあった。一つには、貧富の差を大きくしないほうが経済の発展に役立つという大義名分もあったが、もう1つには「あんな奴らに金持ちになられたのでは腹の虫がおさまらない」というやっかみも手伝って、最高九三%という極端な累進税制が成立したに違いない。「隣の家の屋根が黄金でできていても、自分の家の屋根が雨漏りするわけではないが、隣の家の屋根が黄金でできているのがただただ憎らしい。だから、あれを引っぺがしてやれというのが戦後の日本の税法だ」と私は揶揄したが、その当時立法にあたった人々の大半は、よもや将来、自分たちがこの累進税率のアミにかかるようになるとは想像もしていなかったに違いない。
←前ページへ 次ページへ→

目次へ 中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ