まえがき
今からおよそ二百年あまり前、アダム・スミスという人が、アメリカというイギリスの植民地で経済が急速に発展するのを横目に見ながら、『国富論』という本を書いた。スミス以前は、富とか、財宝といえば、金銀・宝石のたぐいだと考えられていた。それに対して、スミスは「あらゆる富の源泉は労働である」と喝破した。「金銀で葡萄酒が買えるなら、葡萄酒をつくる人は葡萄酒で金銀を買えるじゃないか」とスミスは言っている。
もともとスミスはグラスゴー大学の論理学の先生であり、その講義は学生たちに人気があった。しかし、この『国富論』のおかげで経済学という新しい学問の分野の始祖と仰がれるようになった。とはいっても、スミスにはストーリイ・テラーとしての才能があったので、『国富論』の内容は後世の経済学の専門書のような無味乾燥のものではない。
それから百年ほどたってドイツからロンドンに亡命していたマルクスという人が、当時、産業革命によって経済の急速に発展していたイギリスで、いくら経済が発展しても、懐が豊かになるのは資本家ばかりで、スラムに住む労働者たちが貧困にあえぎ、飲んだくれているのを見て、『資本論』という本を書いた。
マルクスという人は、体質的にネチネチと粘っこい人で、全く他人の意見に耳を傾けようとせず、自分の学問的な敵に対してはいささかの妥協も見せなかったが、それがのちにこの人の思想を受け継いだ人々にそのまま受け継がれた。私が見ると、マルクスの経済実社会の捉え方にはいささか無理があるが、「資本家ばかり栄え、労働者が痛めつけられている」という指摘は多くの人々の社会的正義感に訴えたので、世の中を大きく変えた。世界中に多くの共産主義国家を誕生させるきっかけとなったし、どうやら共産主義にならずにすんだ国々でも、今日、経営者が労働者の福祉に神経を使わないですんでいる国は一つもない。
そういった意味では、マルクス経済学のはたした役割は、富をもたらす物の考え方というよりは、分配に対する働く者の要求を代表するものであり、経済学的というよりは社会思想史的なものであろう。
それからさらに百年たって、二十世紀の後半に、台湾生まれの私が偶然、東京に居を構え、敗戦後の日本がほとんど無一文に近い状態から、約三十年間で世界でも一、二を争う金持ちの国にのしあがって行くのを、まのあたりに観察するチャンスを得た。私が大学で習った経済学によると、富は広大な国土や豊富な資源を持つ国のものであり、日本やNIESの国々のような天然資源に恵まれない国々は貧乏国に分類されていた。
ところが、資本も資源もない戦後の日本では、九〇〇〇万人の人口を養っていくために、外国から原料を輸入して、それを製品に加工して再輸出をし、手間賃を稼がなければならなかった。皆が無我夢中になって、そうした付加価値の創造に従事した。最初の頃は「安かろう、悪かろう」とバカにされていたメイド・イン・ジャパンであったが、いつの間にか世界中から信頼される良質で安価な商品となり、それをつくり出した日本人は一躍、嫉妬や羨望の的となった。
その秘密は一体、どこにあるのか。なぜ資本も資源もなかった国の人たちが世界一の富裕国になれたのか、に興味を抱くのは、もとより私一人ではあるまい。私は普通の日本人のようにその渦中に埋没してしまう立場にはないが、かといってアメリカの経済学者や社会学者のように、日本の事情に精通していない、ほとんど日本語も喋れない人々が「象のカラダを無でながら、象について語る」ような立場でもない。
日本人のつくり出した富も、基本的には労働力の所産であり、その点では私も「富は労働のつくり出すもの」というスミスやマルクスの見解に異存を唱えるものではない。しかし、日本人の成功は労働力を「付加価値の創造」に集中させた結果であり、それは主として工業化によってもたらされたものであるから、「工業化に成功した者が金持ちになる」という新しい法則が誕生することになった。
そうした日本人の成功について日本人の生活や思想から迫ったのが、前著の『金持ちニッポン論』(毎日新聞社刊)であるが、今回は経済面の分析に重点をおいた。本書は季刊誌『Voiceビジネス特集』に、一回八〇枚ずつ四回に分けて連載したものである。あと四回後半を執筆する予定なので、まだ完結していないが、とりあえず第一冊目を世に出すことになった。上梓にあたって、担当をして下さった同誌編集部の安藤卓さん、出版部の松本道明さんに感謝の意を表したい。
一九八八年十二月吉日 台北より東京へ戻る中華航空機上にて
邱永漢
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