最初のころは、メーカーも専属小売店を組織してきた手前、安売りを放任すると町の電気屋の激しい抵抗にあい、協定違反の安売りをする量販店への流通経路を封じさせられた。製品に暗号をつけ、それがどこの問屋からどういう経路で安売り屋に流れたかを調べさせて、そうした間屋に商品を卸すことを拒否した。しかし、メーカーにとってみれば、それは新しい形の、しかももっと売れる可能性を持った販売革命であったから、必ずしも迷惑を受けているだけとは言えなかった。流通経路が旧態依然としていて、マージンの大半がそこにおちているとすれば、そこを省略してショート・カットで最終消費者に近づくことができれば、物はもっとたくさん売れる。メーカーの側から言っても、安売り屋の側から言っても、中間業者をはずして直結できれば、もっと商売になる道はそこに見えている。日本の流通革命はそういった盲点を突くところから始まったと言ってよい。
電気製品の安売り屋に起ったことは、食料品とか、衣料品の分野でも当然起りうる。いずれも問屋制度の欠陥を突いて起ったものであるが、昭和三十年代のはじめには、まだ日用品や家庭用品を総括したアメリカ式のスーパー・マーケットはできあがっていなかった。戦争直後の日本は何事もアメリカに学ぶ時代であったから、小売商人のなかには流通革命を目指して、アメリカのスーパーの視察に出かけた人々があった。これらの人々のなかから、ダイエーやイトーヨーカ堂やジャスコのような全国チェーンのスーパー、さらにはそれぞれの地方で地方スーパーとして地盤を築いた流通革命の闘士たちが誕生したのである。スーパーは昭和三十年の前半から約四半世紀のあいだに破竹の勢いで全国を制覇した。今まで東海道五十三次をえっこらやっこら駕龍を担いで動くようなのんびりした流通システムだったのに対して、ショート・力ットでメー力ーとつながり、大量生産、大量販売でデパートよりも、また商店街の小売店よりも安い値段で消費者に商品を提供したので、デパートのない地域では商店街のお客をごっそりちょうだいしたし、デパートのある地域では、デパートと商店街の両方からお客を奪うことに成功した。

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