「日本人がやっていることは、花見酒と同じじゃないか」と笠さんは、高度成長で浮かれている国民に一石投じ、たいへん評判になった。本もよく売れたし、評論家としての笠さんの名声を高めもした。しかし、私は笠さんの物の見方には同調しなかった。というのは、私に言わせると、経済というものはもともと花見酒的性格をもっており、熊さんと八さんだけで飲み合うだけでは多少、間題があるが、たとえば、花見に来ている観客が買ってくれなかったとしても、おでん屋のオヤジが甘酒を買い、熊さんがおでん屋のオヤジから貰ったお金で、大福餅なりところてんを買えば、それで、おでんも、大福餅も、ところてんも、甘酒もみんなよく売れて、家へ帰ってまた新しい仕込みをすることができるものなのである。
問題は、人々が動きまわっている過程で、次の生産が行われているかどうか、であって、私の見るところでは、生産が次々と活発にすすんで、物は売れているし、それを上回って貯蓄も行われている。付加価値の創造によって、支払うお金が年々ふえているからこそ土地が値上がりするのであって、土地の値上がりは富の蓄積された結果であって、原因ではないのである。そういう見方をしていたので、私は「日本経済は確かに花見酒かもしれないが、そんなに早く底をつくことはないだろう。少なくとも笠さんの生命よりは日本経済の旺うが長持ちするはずだ」と寸評を加えたことがあった。
人問の生命は短い。笠さんもいつしかこの世を去ってしまったが、土地のキャッチ・ボールをしながら、生産を拡大し、失敗した分を値上がりした土地で帳消しにする日本経済のシステムはいまだに残っている。してみると、土地は豊かな社会の安全弁の役割をはたしているが、世の中を豊かにする原動力ではない。やはり大切なことは、年間の消費を充たしてなお余りある生産が行われているかどうか、そうした意欲と勤勉さをその国の人々が持ち合わせているかどうかであろう。
たまたま土地を安全弁にして、日本の企業は生産をすすめてきたので、土地の値上がりの現象ばかりが目についたが、日本の国を動かしているエネルギーは別のところから発している。それが続いている限り、ときどき花見酒に酔うようなことがあっても、日本人は金持ちであり続けることができるのである。
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