あるとき、私は立石電機の創業者である立石一真氏と新幹線の中で一緒になった。何かのついでに、中小企業の個人保証のことに話が及び、「上場すれば、どうやら個人保証からも解放されますけどね」と私が例をあげて説明をしたら、立石さんは、「いい話をききました。私はいまでもまだずっと個人保証をさせられてますよ」と言った。そういうところが、銀行のずるいところで、もうとっくに個人の能力をはるかに超えてしまった大企業でも、本人から申し出のない限り、社長に全責任を負わせ続けようとするのである。
第三に、お金を貸す条件の一つとして歩積み両建てなど非合法スレスレの苛酷な要求をした。商売だからとは言いながら、利息は先取りするし(外国では後払いになっている)、また手形の書き換えをするときは、決済日と新規借入日をダブらせて、日を二日で計算して利息の二重取りをする。歩積み両建てといっても、今の若い人はわからないかもしれないが、資金の欠乏した時代には、受取り手形を決算日前に現金化しなければ、月給も払えないという企業が多かった。
企業が銀行に行って集金日に集めてきた手形を割引いてほしいと頼むと、銀行は割引いた現金のうち三%とか五%を積立金として預金してほしいと要求した。割引手数料をとられたうえに、一定歩合を積立てさせられたが、それが銀行界の風習といわれれば、泣く泣く応ずるよりほかなかった。
また手形割引のほかに、借入れを申し込んだ場合、銀行は「いくら預金していただけますか?」と条件をつけた。お金がないから借金にきたのに、借金する前に預金をしろ、と要求する。たとえば100万円借りたかったら、まず30万円預金をしろ、と言う。この両建ての比率は、会社により、また時の金融事情により、30%になったり、20%になったりしたが、空前の金融緩和が起る前は、ずっと20%をくだることはなかった。
大蔵省はたびたび銀行のこうした非合法的要求に対して警告を発したが、すると銀行は、預金日と貸出日をズラして両建て預金をさせて、「拘束預金はございません」という通知書をわざと会社へ送ってよこすようになった。どうして法の目をくぐってまで銀行がそうした両建てに固執したかというと、預金利率と貸付利率の差が利ザヤになって表向きの利息より1%か2%よけいに収入をあげることができたからであり、また両建てにすることによって預金も貸出しも水増しができ、銀行問の預金集めの競争に役立たせることができたからである。
もちろん、こうした苛酷な貸出し条件は、空前の金あまりが始まると、どこかに吹っとんでしまった。しかし、貸し出した資金の安全を案ずるあまり、中小企業やべンチャーにお金を貸したがらない傾向に大きな変化が起ったわけではない。昔も今もそれは同じで、30年前は30年前で、今、日本の花形産業に成長した家電メーカーにしても、精密エ業にしても、あるいは、スーパーにしても、資金不足に悩んだし、思うように銀行からお金を借りることができなかった。
←前ページへ 次ページへ→

目次へ 中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ