会社の社長が創業者社長であったとしても、この原則に大して変りはない。企業のスケールが大きくなればなるほど自分の持株は少なくなるから、他の株主に対して、社長は社員側を代表する。アメリカなら過半数の株を傘下におさめていなければ、たちまち乗っ取りにあってしまうが、日本では所有と経営が分離しており、経営者の発言権のほうが大きいから、持株がわずか三%でも社長の地位が保てる。したがってオーナー社長は、社員に対しては株主の利益を代表することもあるが、会社および社員を代表して株主と交渉する立場にもあるのである。
そういう組織になっているからには社長と社員が常に対立する立場にあるとはいえない。もし利害が相反することがあるとすれば、会社全体の長期的な安泰のために、利益金のなかのより多くを会社に残すかどうか、という一点で意見が分れるくらいなものである。おかげで、マルクスの時代よりは付加価値のなかのかなり大きな部分が労働者に分配されるようになったし、分配されない部分も大半は会社に残されて、株主の手には渡らなくなった。株主がそれに対して文句を言わなくなったのは、株主の七〇%が法人になってしまい、あとの個人株主もあまりにも零細化して会社に対して発言権を持たなくなったために(定期預金の利息に預金者が文句を言わないように)、ついに株の配当に対しても、支給されたものをおとなしく頂戴するだけになり下がってしまったのである。
こうした分配方式が最も理想的な形であるかどうかは人によって異論もあろう。しかし、資本も資源もない国の、一歩間違えたら餓死に直面するかもしれないピンチにおちいった人々が無我夢中でもがいているうちに、その創り出す富は増えに増え続け、ついに世界一という水準にまでのしあがった。それが労働の所産であることは疑いの余地もないのだが、労働の中身がアダム・スミスの時代とも、カール・マルクスの時代とも、かなり違うものであることもまた何の疑いもないであろう。
日本人の富がどういう経路を経て創られたのか、それは世界経済をどういう具合に変えてゆくのか、ほかの国の国民にもそういう真似ができるのか、世界の富の創造と分配は今後どうなるのか、といったことについて、これから少しばかり私見を述べてみたいと思う。
←前ページへ 次ページへ→

目次へ 中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ