戦後日本では、付加価値の大きな部分が労働者に分配されてきた
ところが、二十世紀の半ばの敗戦後の日本では、付加価値の大半は、マルクスおよびその信徒が約一世紀にわたって大暴れをした甲斐があって、労賃あるいはボーナスという形で労働者に分配され、残った分だけが利益と認定されたが、そのまた五〇%ないし六〇%は税金として政府に取り立てられ、そのまた残りの大半もこれまた積立金もしくは留保金として会社に残され、わずかに残飯程度のお金が株主の取り分として配当にまわされる習慣ができあがった。というのも、敗戦後の日本では、西洋的な概念での資本家はもはやいなくなってしまい、「労働者ばかりの国」になってしまったからである。
もちろん、労働運動を盛り上げるためにはどこの国でも敵役は必要である。財閥はすでに解体されていたし、社会のトップを形成していた支配階級は占領軍によって追放されていた。金持ちらしい金持ちはもう残っていなかった。
太宰治の『斜陽』に描かれているように、かつての有産階級は皇族や華族も含めてすべて売り食いで世過ぎをし、それらの人々が息を吹きかえして再び財界のトップに戻ることは、(わずかの才能ある企業家を除いて)皆無に近いといってよかった。土地を持っていた者は土地を売り、お茶の道具や美術品を持っていた者は、それらの宝物を手放した。したがって労働運動は本来なら闘争の対象を失ってこぶしのやり場に困ったはずだが、彼らは独占金融資本とか、会社の社長を仮想敵に仕立てあげ、賃上げ闘争の相手にしたのである。
なるほど会社や銀行はピケを張られたり、ストをやられたら、営業にさしつかえるから、なるたけ事を穏便におさめようとする。会社に多少でも資金的な余裕があればべース・アッブの要求はきき入れる。というのも、会社側に仕立てられた人々も、昨日までは組合側に属していた人々であり、経営のお役目を仰せつかったために会社側という立場に立っているだけのことで、もともとは他の社員同様、会社の収入のなかからサラリーをもらう立場にすぎないからである。
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