第213回
ある週刊誌への取材回答 その2
断定を避ける批評の仕方は責任逃れである
・「…はずである」「…ではないか」といった、
推測に基づいた形での批判がございますが、
あえて断定を避ける批評の仕方は責任逃れである、
という料理評論家の方の声がございました。
この声について、どのようにお考えでしょうか。
<回答>
ご批判の真意がよくわかりません。
そもそもこのような表現は、
「責任逃れ」とは言えないのではないでしょうか。
「はずである」「ではないか」というのは、
あくまでも著者の推察である、ということを
逆に「はっきりと」述べているわけです。
文責が著者にあると言うことは、
著書であることから明らかなわけですし、
断定を避けるも何も、あくまで推定だと明記しているだけです。
査察権があるわけではないので、
店の帳簿から食材額を追求する事はできません。
自分の基準から考えてこうだろう、と判断しているだけです。
今までのレストラン評価本は、拙著のように切り込んでいません。
シェフの自分勝手な口上を垂れ流し、
褒め称え、こんなにおいしいものを食べさせてもらった、と
親しい様子を述べるだけですから、
このような文体が必要なかっただけと思います。
実際、私も既存のフードジャーナリストや料理評論家の姿勢で
本を書いたなら、このような言い回しは必要なかったでしょう。
おいしいものを食べさせてもらって、褒めるだけですから。
また断定することが本当にいいことなのでしょうか。
山本益博氏は、毎日一週間、
カツ丼とかコッテリ系の同じ食べ物を試食し続けても、
味の絶対感覚は保てる、と断言しています。
本人が断言していますから、
他人がどうこう言う筋合いではありません。
ちょっと不自然だと思われることでも、
それを読者がどうとらえるかにかかってくるだけです。
しかし、他人が確認できないことを断言しても、
それが読者にとって意味がある事とは思えません。
また、拙著を読み直してみましたが、
このような言いまわしをそんなに多用しているとは思いません。
「なべ家」のところでは、
主人が「大黒屋」といった一押しにするにはちょっと考えられない
(一般の人もそう考えるでしょう)天麩羅店を推奨していたので、
これは多分、他の色々な天麩羅屋を試して判断していないだろう、
と推測して「・・・はずがない」を使っています。
「堀兼」のところでも、
転居の理由を私の経験したエピソードから、
面白く推測したところに「・・・ではないか」を使用しています。
読者もこれは友里流の独特の言い回し、
面白い表現と理解される箇所であると思います。
責任逃れ、といわれるのは理解できません。
重複しますが、今までの評価本とまったく違う論調なので、
粗探しの際、自分たちが使っていないので
目立ってしまったということでしょう。
|