したたかなユダヤ商人
今から二十年も前の日本人の常識の中には、工作機械をアメリカに輸出するといった考え方はどだいなかった。年に一度、晴海埠頭でひらかれる国際機械見本市には、日本国中の機械のユーザーが集まってきて、アメリカや西ドイツやスイスやフランスやチェコスロバキアの機械の中から、どれを選ぶか、きめるのが仕事であり、機械は輸入するものと誰しもが思っていたのである。
だから輸出をしようという考え方に至るまでに長く時間がかかったが、山崎さんは実行力のある人だから、いったん、こうときめると、すぐ販売先をつくるためにアメリカにとんで行った。おかげでアメリカを中心に海外市場がひらけるようになり、国内が不景気でピンチにおちいった時も、海外の売上げで、ある程度バランスをとることができた。他の機械メーカーの輸出が全売上高の中で精々一五パーセントにすぎない中にあって、ひとつ山崎鉄工だけが七五パーセントも輸出するようになったのもこの時の決心がきっかけになっているのである。
しかし、ひと口にアメリカで商売をやるといっても、採算にのせるまでが容易ではない。アメリカでメイド・イン・ジャパンの新商品を取り扱っていてくれるのは、大抵がユダヤ人であるから、アメリカに売るということはとりもなおさず、ユダヤ人に売ることである。
名古屋の商人もがめつくて、俗に「名古屋の三値切り」というように、三回値切らないと気持がおさまらないのが名古屋人気質であるが、ユダヤ人はそのまたうわてだから、五値切り、七値切りくらいは平気でやる。やっと相手の注文通りの値段でおさめて、物が売れるようになると、すぐまた値切ってくる。いつもいつも値切りたおされて、お金の儲かるいとまをあたえてくれない。同業他社は先行きを悲観して、景気が回復して本社の業績内容が好転した機会に、累積赤字を消して早々に撤退をしたが、山崎さんは、「うちも撤退するならともかく、今後もアメリカの市場で勝負をする気なら、相手の要求をのまないわけにはいかないだろう」といって、値切られる度にコスト・ダウンに努力をしてきた。
おかげで、メイド・イン・ジャパンとしては、性能に比して最も安価な製品をつくることができるようになった。その代わりユダヤ人と組んでいる限り、どんなに頑張ってもお金持ちにはなれないことがよくわかった。その見極めがついたので、業績が落ち着いた時期を見計らって、ユダヤ人との販売契約を打ち切り、自分でアメリカに販売会杜をつくる決心をした。
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