もう五十歳になっていたその鳶職は、日本人の手下として働いていただけに、誠実で男気のある人だった。しかし、仕事は一つとれただけで、老朽設備をこわして、ちゃんとした貯蔵タンクにつくりかえる工事は完成させたが、あとが続かなかった。私は何ヵ月か、カバンを持って事務所に行き、総経理(社長)の椅子に坐ったが、そのうちに家賃を払うことにも難儀するようになったので、これまた解散せざるを得なくなってしまった。
私は弟の友人の日本人が引き揚げたあとの大安十二甲というところにある住宅を占拠していたが、いくら家賃がただ同様であるといっても、いつまでもブラブラしているわけにはいかなかった。すでに台北にはアメリカの領事館が開かれ、なんと副領事として、高校時代、私たちに英語を教えてくれたジョージ・カー先生が赴任してきていた。先生の顔を見てやっと、先生が戦争中、米軍の情報員として台湾に駐在していたことに思い至った。先生は大東亜戟争のはじまる寸前にも、台湾人の学生たちに同情的で人気を博していたが、光復(中国が主権を回復した)後の台湾が日本人時代よりさらにひどくなっているのを見て、台湾人のために行政公署の役人たちにも遠慮のない苦情を呈してくれた。昔の教え子たちは、昔と同じように先生を慕って先生の住まいにしょっちゅう集まった。
また同じ頃、廖文奎、廖文毅兄弟が上海から台湾へ帰ってきていた。廖兄弟は台南州の西螺(せいら)という地方の大地主の息子で、二人とも博士号をもっていた。文奎さんはシカゴ大学を卒業して金陵大学で教鞭をとり、『韓非子』の英訳をしたほどの学者であった。弟の文毅さんは、、ミシガン州立大学を卒業したエンジニアで、どちらかというと実務肌というよりは政治家肌の人であった。二人とも大陸からアメリカに留学したので中国語と同じように英語をペラペラ喋り、われわれとはまったく異なる経歴の持ち主であった。また二人ともアメリカ人の奥さんを持っていた。したがって本来なら二人とも「半山仔」として国民政府の飼犬の役割をはたす資格があったが、二人ともアメリカ的な自由と平等と民主の空気を吸って育ったから、時の政府の飼犬になることを肯んじなかった。文奎さんは上海に住んでいて時々、台湾に帰ってくる程度であったが、文毅さんは家族を連れて台北へ戻り、私の住んでいるすぐ近くの豪邸に居を構え、城内の事務所で『前鋒』という小雑誌を発行していた。
廖文毅さんはその雑誌を使って政府から無視されている不平分子を集め、「省都無力者会議」と名づけた定期的な座談会を開いていた。どんなことをやっているのだろうかと興味を抱いて、私も時々覗きにいったが、東大を出ていたとはいえ、私はまだ二十二歳の若僧だったから、いつも片隅のほうに小さくなって坐っていた。はじめて会った文毅さんはコールマン髭を生やし、蝶ネクタイ、それに麻の白いスーツを着て、いかにも洋行帰りというスタイルだった。こんな人がどうして国民政府の仲間にならないで、わざわざ無力者の味方をするのか私には不思議でならなかった。 |