一番元気のよかった劉明さんが逮捕されて牢屋に入れられたのを聞いたのは、私が台湾から逃げ出し香港で亡命生活を送るようになってからであった。もし私が台湾に残っていたら、おそらく同じ運命を辿ったに違いない、とその時つくづく思った。
あの時、私立大学が設立されていたら、私は教授陣の末席にでも坐らせてもらうつもりだった。それまでの腰かけとして一時期、大同中学というところで英語の教師をやったこともあった。ABCもわからない子供相手だからなんとかごまかしはきいたが、日本の学校でならった英語では、そのうちに馬脚があらわれることは目に見えていた。とうとう教師の仕事も三ヵ月でやめてしまった。
約半年以上もウロウロした結果、私にわかったことは、大陸から乗り込んできた政府は、台湾人の知識階級を目のカタキにしているということであった。形ばかりの省参議会とか、南京政府への参政員を選挙したりしたが、その選出にあたっては、大陸から一緒に政府について帰ってきた台湾出身者を優先させ、日本時代からずっと台湾に住んでいる知識階級や有力者をできるかぎり、排除しようとした。台湾人たちは、大陸のことを「長山(トンスウア)」と呼んでいたから、大陸から戦後わたってきた外省人を「阿山仔(アースウア ア)」(山の人)と呼び、彼らについて帰ってきた台湾人のことを「半山仔(ボアスウア ア)」(半分、山の人)と呼んでいた。そのいずれにも、侮蔑的なニュアンスがこめられていたことはいうまでもない。
省参議会議長をつとめた黄朝琴、華南銀行董事長(頭取)をつとめた劉啓光、のちに内政部長(内務大臣)をつとめた連震東、ずっとのちに副総統をつとめた謝東閔(とうびん)といった人々は、いずれもこの「半山仔」に分類される。こういう人々は日本統治時代に日本人に反抗して大陸に逃げた人々だが、ただそれだけの理由で、抗日戦争に従事した功績を買われ、帰台して論功行賞の対象になったようなものであった。その分だけ日本帰りは存在を無視されただけでなく、すべての政府のポストから締め出された。まったく利権と関係のない教員をやるとか、でなければ商人になるかのどちらかしか、道は残されていなかった。
たまたま日本から基隆に帰る船の中で知り合った若い仲間たちと台北でよく会うようになった。いずれも台湾へ帰ってきて似たような目にあわされていたから、いっそこの際、企業をおこして実業家になろうじゃないか、と一緒にお金を出し合ってプラントの工事を請負う会杜をつくった。友人の知り合いのなかに、日本時代に鳶職の下請けをしていた親方がいて、工事の見積りや施工はすべてその人が責任を持ってくれるということだった。
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