目のカタキにされた台湾の知識階級

台南市では、姉や妹の通った一高女が二高女に格下げになり、逆に台湾人の通う二高女が一高女に昇格した。素沁と名をかえたすぐ下の妹は、新しい一高女に就職して教鞭をとるようになった。しかし、田舎の町では私のやることは何もなかったし、父が全財産を失うのをそばで見ているのはつらかったから、二週間もしないうちに私は台北市に出ることにした。
台北市には、私と同じように田舎に帰ったが、所在がなくてまたとび出してきた東京時代の仲間が集まっていた。さしあたりどこかに就職しなければならなかったので、台湾総督府の主計局長をやっていた塩見俊二さんのところへ挨拶に行った。引き継ぎのために残留していた塩見さんは、中央大学出身で東京都庁につとめたことのある楊廷謙君と私を、主計局の後身である台湾省財政庁に入れてくれた。塩見さんは日本に引き揚げてから間もなく高知県から参議院に打って出、のちに大臣を何期かつとめている。塩見さんとしては、楊君や私のような日本で高等教育を受けた者が、将来の台湾の財政を担うことを期待していたらしいが、できたての財政庁には人がうようよしているだけで、何もやることがなかった。
それでも勤務時間中はちゃんと机に向かっていなければならなかった。事務机の上には硯と筆が置いてあって、習字をするにはもってこいだったが、何かやりたくてむずむずしている若者にとっては、とうてい我慢のできない退屈な毎日であった。血の気の多い楊君はたった三日間で、「辞めさせていただきます」と憤然として席を蹴った。私は多少は辛抱することを知っていたので、こらえにこらえたが、三日と三ヵ月の違いはあっても、結局、同じように役人になることは断念した。
ちょうどその頃、新興成金の一人に、新店というところで石炭を掘っている劉明さんという人がいた。戦後の日本で炭鉱主の羽振りがよかったように、台湾でも石炭を掘っている人が幅をきかせていた。劉明さんは細おもての、一見やさ男の感じだったが、仕事が仕事だけに荒くれ男たちを顎で使うことに慣れており、侠気もあったが、金離れもよかった。この人が、日本帰りのわれわれが不遇をかこっているのを見て、「私が財界の人たちに奉加帳をまわしてお金を集めましょう」と一番難しい仕事を引き受けてくれた。日本留学組はほとんどが職場から締め出され、台湾大学の教職員の椅子すら拒否されたので、それでは朱昭陽さんを未来の学長に担いで私立大学をつくろうじゃないかということになった。「私立延平学院 籌備処(テュウビイツウ)」という設立事務所が劉明さんのオフィスの一角に設けられ、そこがわれわれの溜り場になった。
しかし、私立延平学院の設立は遅々として進まなかった。行政長官公署はわれわれを反政府運動の一派と見ており、われわれに許可を与えようとしなかったばかりでなく、「日本帝国主義的教育の害毒を受けた不逞分子」と公然非難するようになった。そういったわけで、大学の設立は棚上げになってしまったが、教育庁に話を持って行った人の面子もあるので、一段格下げして初中および高中だけが何とか許可になった。しかし、それから間もなく台湾人の反政府運動に対する弾圧がきびしさをまし、少しでも政府から不穏分子として睨まれると、片っぱしから検挙されて牢屋にぶち込まれるか、でなければ緑島(日本時代の火焼島)に島流しされるようになった。
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