全島を揺るがす二・二八事件

年が明けて全島を揺るがす二・二八事件が起こった時、廖氏兄弟はたまたま上海に行っていた。しかし、蒋介石の援軍が基隆に上陸して治安を回復すると、行政長官公署は、廖氏兄弟を事件の煽動者として全国に指名手配した。どう考えても、廖氏兄弟は二・二八事件と直接かかわっていないというよりほかないが、こういう時に、かねてから快く思っていない仇敵に一矢報いるのが、国民党の常套手段だった。台湾で出した通緝令(つうしゅうれい)はすぐにも上海まで及ぶものではなかったが、廖文毅さんは台湾へ帰るのを取りやめて急遽、香港に居を移した。まだ台北にいる時に、その消息を私は文毅さんの甥の廖史豪さんから聞いた。
さて、以上の記述からもお察しいただけるように、二・二八事件は、起こるべくして起こった反政府暴動であると言ってよいだろう。汚職は跋扈するし、権力は濫用されるし、台湾人はことごとく官公庁から締め出されるし、その上、インフレが猛烈なスピードで加速したので、民衆の生活は戦争中よりも苦しくなっていた。米や砂糖は基隆港から上海に積み出され、代わりに上海から密輸の煙草が持ち込まれるようになった。台湾には日本時代から受け継がれた専売局があって、専売局から売り出される酒や煙草以外はすべて違法ということになっていた。しかし、外省人はそうした法律を無視して、密輸してきた煙草を平気で行商の人たちにおろす。台湾の人たちは職にあぶれ、生活に困っているから、不法を承知で仕入れた煙草を道端で売っている。それをまた専売局の巡視官が片っぱしから没収してまわる。検挙するなら輸入業者にすべきなのに、密輸には目をつぶって、非力の庶民をいじめるのが国民政府のやり口なのである。
終戦の翌々年、すなわち一九四七年二月二十七日のことだった。専売局の巡視官がいつものように取締りに出動して、密輸煙草を売っている老婆をつかまえて煙草を没収しようとした。老婆は巡視官の前にひざまずいて許してくれるように哀願したが、血も涙もない扱いを受けた。その一部始終を二階のベランダから見ていた男が、「おい、許してやったらどうだ」と言葉をかけた。すると、巡視官はいきなり拳銃をぬいて男に向かって発砲した。男は前かがみに倒れかかり、ベランダの手すりにうつ伏せてしまった。ピストルの弾丸が心臓を貫いてしまったのである。
撃たれて死んだのは、大稲の老鰻(ロオモア・やくざ)の身内であったから、他の仲間が黙って引っ込むわけがない。翌二月二十八日になると、お祭りの時に出陣する獅子面を担ぎ出し、顔役たちが「店をしめろ、門をとざせ」とふれてまわった。商家は真っ昼間からシャッターをおろし、獅子面を先頭にした行列が街をねり歩き、そのデモ隊が専売局の門前に着く頃には、三千人からの大部隊にふくれあがっていた。専売局を包囲した群衆は、「殺人犯の銃殺。専売局巡視制度の全廃。専売局長の引責辞職。犠牲者家族への弔慰金」を要求して回答を迫ったが、形勢危うしと見た専売局長はいち早く姿をくらましていた。
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