内台航路の船のデッキで

私は東大の経済学部を受験する決心をしていた。文学部でなくて、経済学部を選んだことは学校のクラスメイトや教師たちを驚かせた。私の文学かぶれはあまねく全校生に知れわたっており、私が文学部にすすむのは当然のことだと思われていたからである。私がそうしなかったのは、植民地台湾に生まれた私のような人間が将来、文学を志しても生計を立てて行く自信がなかったからである。たいていの本島人のクラスメイトは医学部を志望する。文科系の卒業生でさえ途中から医学部に鞍替えをする。このほうが差別待遇されずに生きて行ける最も安全な道だったからだ。
私はすでに十九歳になっていた。もうその頃には私も差別待遇に慣れてしまい、将来、大学を出たら台湾には戻るまい、できれば上海のような国際都市に行って、租界のようなところで国際貿易にでも従事して暮らしたいと思うようになっていた。そのためには、文学部ではやっぱり具合が悪かった。少しばかり経済の知識があって、人に使われても、自分で独立しても何とかやっていけるようにしなければならなかった。それが自分の本心だけれども、こんなことは誰にでも言えることではない。植民地に生まれた者は若い時から、本当に自分が心の中で思っていることを心の中にしっかりしまいこんでしまう修練を身につけなければ、身の安全を全うすることはできなかったのである。
私が東京の大学へ行くことがきまると、何十年間、墓参りのために鳳山(ほうざん)まで行く以外は台南市を離れたことのない、もう一人の母が私を基隆(キイルン)港まで送って行くと言い出した。あるいは、彼女の直感で、もうこれでこの息子とも会えなくなるのではないかと思ったのかもしれない。彼女の足にはまだ纏足の跡が残っていて、小さな靴でよちよち歩くことしかできなかった。その小さな足並みに調子をあわせながら、私たちは岸壁まで歩き、私だけ内台航路の船に乗り込んだ。
もうその頃には、戸籍法と戸口法を結ぶ新しい法律が成立し、父は長い間、私生児になっていた妹以下を、認知するために母の久留米市の籍に移っていた。私の姉は日本人と結婚して台湾から籍を抜いたので、私と私を育ててくれた台湾人の母親だけが台湾の邱家の籍に残される形となった。私とは何の血のつながりもない母親だったが、私にとっては生みの親よりも、もっとずっと大切な母だった。
いよいよ別れの時が来た。私はデッキに立って、見送る人たちの姿が識別できなくなるまでずっと手をふっていた。とうとう誰も見えなくなってしまった。そして、私はついに再びこの世でこの母と会うことはなかった。東大在学中に、母の訃報をきいた。物資の不足している東京にいる息子のために、手術室の中でも、手をあげて夢うつつのまま、豚デンブをまぜ続けていたと父親の口からきいたのは、終戦後、台南の家へ帰ってからのことであった。
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