秀才が文学かぶれの青年に

そういう狭き門をくぐって入学するくらいだから、入ってみると本島人の合格者は秀才揃いであった。入学してからも一番二番は本島人で、三番にやっと内地人というのが珍しくなかった。
本島人がいくら成績が優秀でも兵役の義務がないことを理由に教練で五十九点とか体操・音楽で減点されるから、首席を維持するためにはあとすべてを百点か九十九点とらなければならなかった。私もそういう一人だったが、尋常科に入ってから二年もすると、文学にかぶれるようになり、ついに自分で詩を書いたり、短篇小説を書いたりするようになった。しまいに病こうじて『月来香』という個人雑誌まで刊行するようになった。
文学かぶれの学生がガリ版刷りの同人雑誌を発行することはよくあることである。ところが、私の個人雑誌は和紙に活版刷りだった。表紙は高校の図書館に勤めていた木村さんという職員が木版の趣味を持っていたので、その人に頼んで一枚一枚手刷りでつくった。中身の原稿は国語や理科の先生に書いてもらい、また校内誌で活躍しているクラスメイトに依頼するほか、あとのスペースは全部詩か短篇を自分で書いて埋めた。活版で刷ってもらう代金は毎月の仕送りの中から捻出したが、足りない分は昼食代を節約して印刷屋に支払った。十五、六歳の少年がこんな凝り方をしたのは、当時、台湾日日新報の学芸部長をやりながら、日孝山房という限定出版の会杜をやっていた西川満さんの影響によるものである。西川さんのお宅にはよく押しかけて行って真夜中まで話し込んだ。西川さんは恩地孝四郎とか、川上澄生とか、柳宗悦とかいった人々と親交があり、またウイリアム・モリスの信徒でもあったから、内容より装幀に凝った。そうした豪華本趣味から離れるのにさして時間はかからなかったが、その時、民芸とか民俗に興味を持ったことが何十年かのちに私が台湾の民芸品を蒐集して台南市に永漢民芸館を寄贈するきっかけになった。
旧制高校生だった頃の私は文学青年ではあったが、まだ政治青年ではなかった。私は日本人の植民地支配には不満を持っていたが、文学に鬱憤のはけ口を持っていたので、正面きって反抗しようという気持はなかった。だが、先輩の本島人学生の中には心底から日本の統治を憎み、中国を祖国と思う人たちが少なくなかった。これらの人々は高校の英語教師であるアメリカ人の、ジョージ・カー先生のもとに集まった。カー先生がアメリカ海軍に所属し、実は情報員であることはのちになってからわかったが、それは戦後、副領事として再び台湾に戻ってきてからのことである。
折から戦争は日華事変から大東亜戦争に突っ込もうとしている時期であった。台湾の人々は軍属として徴用され、大陸へ強制労働に連れて行かれた。「雨夜花」という歌は女のはかなさを雨の夜の花にたとえてつくられた台湾の民謡であったが、台北放送局に勤めていた日本人の一人がこれに日本語の歌詞をつけて軍夫の歌につくりなおした。

赤い襷の誉れの軍夫
うれし僕らは日本の男児(おとこ)

この歌を出征する軍夫にむりやり歌わせた。私たち本島人の学生は、いよいよ大東亜戦争を間近に控えて台湾から去ろうとしているカー先生の送別会を大稲の江山楼という台湾料理屋でひらいた。席上、誰からともなく「雨夜花」のメロディが口をついて出、わざと軍夫の歌のセリフで歌ってみんなで大声をあげて泣いた。台湾の人たちに、祖先を同じくする大陸の人に向かって銃口を向けろということは、どだい無理な話だった。しかし、日本人の大陸進攻にあたって台湾の人たちは、現地の言葉もわかるし、命令していうことをきかせることもできるなんとも便利な存在だった。それがまた台湾の人たちにとってやりきれないことでもあった。
とうとう大東亜戦争がはじまった。私たち高校生は必勝を願って全員、台湾神社に参拝させられた。日本人にとっては当たり前のことだが、台湾人にとっては複雑な思いのほうが先に立った。
緒戦で日本の大勝が報じられても、喜んでよいのか、泣いていいのかわからなかった。はたして正確な情報による成果かどうかも疑わしかった。戦争のおかげで三年制だった高校は半年短縮されて、二年半になり、私は予定より半年早い十七年十月入学の東大受験のために、夏休みから東京に行かなければならなくなった。

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