しかし、母がその反対を押し切った。翌日から私の特訓がはじまった。どこの小学校でも六年生になると、上級学校受験のために正規の授業のほか、夜の六時か七時までオーバータイムの特訓がある。私の場合はそれが終わったあと、また先生の家に連れて行かれて単独で夜の十一時頃までさらに特訓を受けた。母は私が冷たくなった弁当を食べることを嫌がり、昼と夜と二回にわけてうちの使用人にほかほかの弁当を小学校まで届けさせたし、私が家に帰るまで寝ないで待っていた。
それくらいの特訓を受けても、私が台北高校尋常科に無事合格できるとは誰も思っていなかった。というのは、四百名受験して四十名入学というのはあくまでも表向きで、実際には四百名の受験生のうち内地人と本島人が半々だが、合格者は三十五名が内地人、五名が本島人という割当になっていたからである。いくら私が秀才だといっても、二百名の本島人の一番二番のうちの最先頭の五人には入らないだろうと思ったのである。ところが、私は物の見事に合格をした。早生まれの十三歳で、受験番号十三番の私は母親に伴われて生まれてはじめて台北市へ出かけ、小学校とは比べ物にならないほど立派な教室で試験を受けた。私は少しも動じなかったが、母親は私がドキドキしないように、ふところの中から錠剤を出して「これを飲むと落ち着くから」と受験前に私にこっそり渡した。救心の錠剤だった。飲まなければならなかったのは母親のほうだったと思うが、とにかくこうしたおまじないの効果もあって、私は「台南新報」の漢文版で、秀才と報じられた。父がその新聞を見て、「お前のような餓鬼が何で秀才なものか」と一笑に付した。
父の頭の中にある秀才とは、清朝時代の科挙の試験に合格した者のことであった。状元、榜眼、探花、秀才と区別はあるが、一番どん尻の秀才に合格しただけでも町をあげての大騒ぎになった。
それに比べると、何とも頼りない秀才だったが、その時の父の笑顔といったらいまでも忘れられない。
ついでに申せば、私と五つ違いの次の弟も六年生になると、同じように南門小学校を代表して台北高校尋常科の受験に行かされ、私と同じように合格した。また私の姉も次の妹も台南一女を卒業すると、目白の女子大の家政科に入学し、とくに妹は卒業式で全卒業生を代表して謝辞を読まされたくらいだから、秀才一家と呼ばれた。
しかし、これには多少の註釈が必要である。というのも私は二百名に五名の難関を突破して尋常科に入ったが、弟は堤という内地人であり、二百名に三十五名の広い門をくぐったにすぎないからである。同じ兄弟でも、兄貴と弟とでは出来がかなり違うんじゃないか、というのが私の言い分である。
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