文学少年から政治青年へ 一見、無謀に見えて、実は用心深く

東大は受験生にとっておそらく昔も今も最大の難関であろう。しかし、私自身がそう思ったことはただの一度もなかった。そんな言い方をすると不遜にきこえるかもしれないが、猛烈な差別待遇の中を生き抜いてきた私にしてみれば、受験ていどのことで人後におちることはないという自信があった。台北高校に入学できたほどの本島人なら、誰もが内心でそう思っていたに違いない。
私が台北高校に在学していた頃、同校の先輩にあたる宮崎県出身の作家・中村地平さんが招かれて学生たちにスピーチをしたことがある。「どうして内地からわざわざ台北高校に入学されたのですか?」と学生が質問をしたら、「台北のほうが内地に比べて入試がやさしいと聞いたからですよ」と中村さんは答えて爆笑を買ったことがあった。そうした内地人に対しては大きく開かれた高等教育の門だったが、六百万人の台湾人に対しては、身体一つ入れるのにも苦労するほどのわずかなスキマしか開かれていなかった。なかでも四十名一組の尋常科(中学部)が一番の難関であったが、高等科になって文甲・文乙・理甲・理乙と四組にふえても、難関であることに変わりはなかった。
台北高校高等科時代 王育徳君(左)と

どのクラスも四十五名ほどであったが、文科系を志望する本島人は少なかった。うっかり文科系を志望すると、大学を出てから弁護士になるか、新聞記者になるくらいしか道が残されていなかった。内地人のように官途に就くことはまず考えられなかった。仮に製糖会杜や台湾拓殖のような会杜に運よく就職できたとしても、出世のできる見込みがなかったから、たいていの本島人学生は個人営業のできる医者への道を選択し、他のクラスがすべて五、六人ていどなのに対し、医学部への直線コースである理乙だけは、クラス中の40%近くを本島人が占めていた。台湾人の秀才たちはほとんど理乙に集中していたと見てよい。
文甲を選んだ私のクラスには私も含めて六名の本島人がいたが、のちに明治大学文学部教授になった王育徳君と私だけが東大を志望し、他の四名はすべて長崎医大とか、新しくできた台大医学部に方向転換して医者になった。王育徳君は東大経済学部経済学科を志望して不合格になり、翌年、文学部に転じて中国文学を専攻するようになったが、私は万一のことを考えて最初から商業学科を選び、首尾よく東大に入学することができた。
なぜ自信満カの私がわざわざ商業学科を選んだかというと、経済学科に比べて競争率が低く、まかり間違えても失敗することはないだろうと踏んだからであった。生意気盛りの私は誰にも負けないという自信があったが、それはあくまで日本の一植民地にすぎない台湾という田舎舞台においてのことであった。内地に行けば、一高、東大というエリート・コースをスイスイと泳いであがる秀才たちがたくさんいるときいたし、ナンバー高校の秀才たちも手強いライバルであるに違いない。なにせ東大の合格率を見ると、ドン尻が学習院高等部で、ブービー賞をもらえる位置にいるのが台北高校と来ている。そんな片田舎の高校で"お山の大将"をきわめたからといって、そうそう調子に乗ることもできまい。一見、無謀なように見えても、いざとなったら用心深くなる私の性癖がこんなところにも見えている。おかげで私はなんなく東大に入学できたが、のちの人生においてもこの鉄則を守ることによって、命拾いをしたり、きびしいピンチを切り抜けることができた。
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