第148回
無知は罪なるや
私の茶飲み友だちでもあるOさんは、
傘寿をとうに超え、
私とは一世代(30年)もちがう老紳士なのだが、
なにかと肌合いが合うようで、
君子の交わりのごときつき合いが10年以上も続いている。
東外大出の0さんは、
今でも原書で読むくらいロシア語とロシア文学に通じていて、
たまたまドストエフスキーの話題になったりすると、
少年のように目を輝かせる。
親子ほどにも齢のちがう二人が、
なぜ肝胆相照らすようなつき合いができるのかというと、
互いに同じ文化を共有しているからである。
言葉の拠り所になっている歴史や文化を共有し、
そのことが二人の会話の暗黙の前提事項になっている。
学殖豊かなOさんを前にして、
口はばったいことは言いたくないけれど、
私だって、鴎外漱石はもちろんのこと、
二葉亭も露伴も紅葉も“さわり”ぐらいは読んでいる。
談論風発、時に戦争中の話題におよぶこともあるが、
相づちぐらいはいつでも打てる。
まるっきりの戦後世代ではあるが、
知識の不足は想像力で補えば足りるだろう。
つまりご大層な言い方をするならば、
人類がこれまで培ってきた智恵なりの一端を、
書物に親しむことで、曲がりなりにも継承してきた、
ということなのだ。
ならば、私と一世代ちがう20代の若者が、
膝を交え、共に胸襟を開いて語り合えるかというと、
おそらくそれはできないだろう。
なぜなら彼ら若者は、
先人たちが築き上げた文化なりを受け継ごうとする意志が
甚だ薄弱だからだ。
その証拠に、ケータイを四六時中いじくりまわすことはあっても、
本を手に取ることはまずない。
先人の知恵を継承するに最も効率のいい受け皿は書物である。
その書物にまったく関心を示さないのだから、
文化の共有もへちまもない。
案の定、彼らは悲しいくらいにものを知らない。
三島由紀夫も知らなければ、川端康成も知らない。
日本とアメリカがかつて干戈を交え、
南太平洋の島々で死闘を演じたことさえ知らない。
「それでいったい、どっちが勝ったの?」。
真顔で質問した学生がいたという。
私たちの世代は、まだ「知」というものに信を置いていた。
知らないということは恥ずかしいことだった。
私は無知は罪だとさえ思っている。
しかるに、今時の若者たちは、
悪びれもせずに「知らない」を連発する。
「戦争? 知らないわ、そんなもの。生まれてないもん……」。
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