第142回
個性派ごっこ
私は若者がきらいだ。
理由は簡単。彼らは無知で礼儀知らずで品がなく、
やたら群れたがるからだ。
私も30年前は、箸にも棒にもかからぬ尊大な若者だった。
大人たちは、そんな私を見て、
「なんてイヤな野郎だ」と思ったにちがいない。
大人の眼から見れば、若者はいつだって未熟者だ。
エネルギーだけが過剰に放射され、コントロールすらできない。
それでいて自尊心だけは異常にふくれ上がっているのだから、
目もあてられない。
若者はみな、自分のことを個性的だと思っている。
少なくとも個性的でありたいと願っている。
しかし私の眼に映る彼らは、
一様にのっぺりしていて、「個性」のかけらすら感じられない。
そんなことはない、渋谷や原宿に行けば、
個性的なファッションの若者たちであふれているではないか、
と反論するムキもあろうが、あんなものは個性とは呼ばない。
奇抜な服を着て、髪を染め、
耳や鼻にピアスをすることが個性なら、
鼻飾りやペニスケースをつけたニューギニア高地人のほうが、
よっぽど個性的だ。
そんなに目立ちたければ、髪など染めず、
日本人らしくチョンマゲにでもすればいいのだ。
私には「今人」より「古人」を尊ぶ癖がある。
なぜなら、古人のほうがはるかに個性的だからだ。
身近なところでも、
戦後生まれより明治生まれの人間のほうが
骨太で存在感があったような気がする。
顔つきもゴツゴツしていて、
骨など噛み砕いてしまいそうな顎をしていた。
総じて明治人は、寡黙で頑固だった。
個性とは沈黙するものであった。
《按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし》
とは斎藤緑雨の言葉だ。
緑雨は我ら魯鈍[の者たちが千万言を費やしても尽くせないことを、
ただ一言でいってのけた。
その警句は江戸趣味の血筋を引くもので、
多く遊び心に満ちていた。
緑雨の警句集を一瞥すれば、
ラ・ロシュフコー公爵の箴言集[すら
遠くかすんでしまうほどだ。
古人には緑雨のような真の個性がゴロゴロしている。
個性とは髪の色やピアスの数を競うものではない。
ましてや高価なブランド品を身にまとうことでもない。
自分よりはるかに巨きなものと対決して初めて、
心の裡から滲み出てくるもので、
そうした経験のない者には、
土台個性など生まれようがないのだ。
没個性のおバカな若者たちよ、
せいぜい奇を衒って、「個性派ごっこ」に浮かれているがいい。
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