第141回
没個性の群れ
小林秀雄に『一つの脳髄』という小説がある。
その中にこんな一節がある。
《――これらが皆醜い奇妙な置物の様に
黙って船の振動でガタガタ慄へて居るのだ。
自分の身体も勿論、彼等と同じリズムで慄へなければならない。
それが堪らなかった》。
私はこの一段に及んだとき、
「そう、そうなんだよな!」
と感に堪えないような声を発してしまったのを覚えている。
この小説の主人公の感受性が、
私のそれとあまりに似ていたからだ。
江藤淳はそれを「志賀直哉的な嫌人性」と評した。
志賀直哉的だろうと何だろうと、
また意識的にしろ無意識にしろ、
他人と同じリズムで慄えることに
生理的な嫌悪感をもってしまうのは、
やはり病的なことなのだろうか。
それとも単なるつむじ曲がりなのか。
いずれにしろ、昔の竹の子族ではないが、
リーダーのピッピッという笛に従って
同じ振りつけのダンスを踊ったり、
一糸乱れぬ「パラパラ」などという踊りが流行ったりすると、
なんて薄気味のわるいものが流行るのだ、
とついおぞけをふるってしまう。
テレビでサザンオールスターズの沖縄野外公演のステージを見た。
サザンのステージは相変わらず華やかで、ハチャメチャで、
そしてちょっぴりエッチだった。
もちろん乗りノリになってしまったのはいうまでもないが、
気に入らないのは数千数万の観客だった。
曲に合わせて手拍子足拍子をやるのはいいが、
どいつもこいつも、みな振りつけが同じなのだ。
両手を大きく天に突きだし、さざ波のように左右に振る。
これはまさにパラパラだし、
キム将軍自慢のマスゲームそのものだ。
桑田佳祐が調子に乗り、ホースで観客に放水すれば、
会場はもう興奮のるつぼだ。
びしょ濡れになって肌を寄せ合い、
つかの間の陶酔感に熱狂している観客の顔も、これまた同じ。
千人いても万人いても、
結局一つの生命体のような群れが、
同じ動きをしているだけなのだ。
私はだんだん気分がわるくなってきた。
野球にしろサッカーにしろ、日本人の応援風景はいつも同じ。
笛や太鼓が欠かせず、一糸乱れぬ振りつけは、
まるで盆踊りそのものだ。
これも農耕民族のDNAなのか、
「右へ倣え」があらゆる生活シーンに顔を出す。
たぶんマスゲームでもやらせたら、北朝鮮以上だろう。
「右へ倣え」ができない私は、
こんな光景を見せつけられるたびに、ひとり憮然としている。
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