第132回
引っこめ弔電!
私は葬式が好き、と以前書いたが、
結婚披露宴に比べたら数段マシ、といっただけで、
なにも葬式が三度のメシより好きなわけではない。
近頃は齢のせいか、涙腺も弛くなってしまい、
義理で参列した友人の母君の弔いの場でも、
不覚にも涙を流してしまった。
このご母堂には、失礼ながら、生前一面識もなかった。
葬式でつらいのは、坊主の読経だ。
意味もわからぬお経を長々と聞かされるほど
バカバカしいことはない。
私だって人並みの信心は持ち合わせている。
が、それは宗教のドグマとは関係のないもので、
強いていうなら、西行が詠んだという
《何事のおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるゝ》
という心境に近い。
つまりどちらかというと古神道の風韻を帯びている。
そういうわけだから、お経は“さわり”だけにしてほしい。
仏教では人は死ぬと「空」に帰す。
それが証拠に、お釈迦様には墓などない。
つまり霊魂などという思想はないのだが、
坊主たちはいかにも在るような口ぶりでもったいをつける。
「ありがたい戒名をいただいてね……」。
遺族は得意顔である。
なに戒名など仏教の本義とはまったく関係がない。
院だの殿だのという高位の戒名も、
鰻丼の上中並と同じで、
金さえ積めばいくらでも階層ステージを上げてくれる。
こんなバカな慣習をいつまでも続けているから、
葬式仏教などと蔑まれてしまうのだが、
ハイヤーで送り迎えされ、VIP扱いされている坊主には、
その切なる声が届かない。
私はいつだって厳粛な気持ちで葬儀に臨んでいる。
が、仏式の葬儀に付きもののこうした商業主義が鼻につくと、
時々嫌悪感が先に立ち、たまらなくなってしまうことがある。
坊主より腹立たしいのは、弔電の披露だ。
こちとら、クソ忙しい中、
わざわざ足を運んで会葬に出向いている。
それなのに、なにゆえ来もしない人の名前を
もったいつけて読み上げる必要があるのか。
結婚披露宴にも祝電披露があり、
いつだったか内閣総理大臣の名前が出た時は、
思わず会場から「オオッ!」というざわめきが起きた。
「こういう有名人とのおつき合いもありますのよ、ホホホ」。
おそらく関係者の見栄もあるだろう。
しかしどこの何様の弔電祝電であれ、
来もしないで会葬者をかしこまらせ、
大きな顔をすることは許されない。
私は心の中でいつもこう叫ぶのだ。
「戒名無用、弔電粉砕ッ!」
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