| 第110回ヨレヨレ万歳!
 背中ピィ――われら夫婦にとっては忘れたくとも忘れられない言葉である。
 長女は生後八カ月でアトピー性皮膚炎を発症し、
 今もその後遺症に少なからず悩まされている。
 冒頭の“背中ピィ”は、
 長女が幼児のときに発した造語で、
 「背中を掻いてくれ」の意味だ。
 この“背中ピィ”が寝ている間じゅう、
 ケータイの着信音みたいに鳴り響いている様を、
 どうか想像してみてほしい。
 川の字に寝ている私たちは、
 代わりばんこに娘の背中を掻いてやるのだが、
 就寝中は体温が上がるせいか痒みも増すようで、
 この哀願調の“背中ピィ”が文字どおりピィピィ鳴り響く。
 こうなったらもう眠れやしない。
 当時、まだサラリーマンだった私たちは、慢性的な寝不足をこらえ、娘を保育園に預けるや、
 ラッシュで混み合う通勤電車に飛び乗った。
 夜が怖い――あのころは本気でそう思った。
 夜になるとあの恐怖の“背中ピィ”が聞こえてくる。
 まるで悪魔の手鞠歌のようだった。
 実家の老母が一度この可愛い悪魔の声を聞いたことがある。
 妻が出張の折、泊まりがけで手伝いに来てくれたのだ。
 夜中になると、案の定、ピィピィが始まった。
 隣室に寝ていた母はそっとふすまを開け、
 ピィピィの正体を目撃した。
 私は疲れ果て、泥のように眠っているのだが、
 手だけは無意識のうちに動いて、娘の背中をさすっている。
 母はこの光景を見て、思わず涙したという。
 子供というものは病気やらケガやらで、次から次へと難題を持ち込んでくる。
 そのたびに私たちは右往左往させられた。
 昔は「親はなくとも子は育つ」といったが、
 近頃は「親はあっても子は育つ」というのだそうで、
 むしろ親なんかいないほうが立派に育つのだそうだ。
 私は何の因果かサラリーマンを辞め、
 家事育児にどっぷり浸かってきたが、
 今は、あの恐怖の“背中ピィ”でさえ、
 やけに懐かしく思われる。
 
 たしかに毎日ヨレヨレだった。
 会社でヨレヨレ、家でもヨレヨレ。
 でも、ヨレヨレになりながらも毎日が充実していた。
 娘の笑顔を見ると疲れなど吹っ飛んでしまった。
 子育てなんてほんのわずかな期間でしかない。
 それなのに、この国のサラリーマンの大半は、
 毎日、子供の寝顔しか見られないような生活を続けている。
 どうせヨレヨレになるのなら、
 仕事と家事の両方でヨレヨレになったらどうなんだ。
 仕事ばかりでへたっていては、男がすたるというものだろう。
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