第109回
往時茫々たり
会津若松へ出張に行った折、
土地の古老と言葉を交わしたところ、
なだらかな飯盛山を仰ぎ見ながら
翁は呟やくともなく呟いたものだ。
「長州だけは赦さねえ……」。
たまたま仕事の相棒が
長州藩(山口県)士族の末裔だったものだから、
私たちは顔を見合わせるなり黙りこくってしまった。
戊辰の役よりすでに140年余。
しかし、いわれなき賊軍の汚名を着せられた会津藩の恨みは深く、
100年そこいらでは、
とても恩讐の彼方にと水に流すわけにはいかぬようだ。
私には今でも涙なくして読めない書がある。
『ある明治人の記録』(中公新書)という本で、
副題に「会津人柴五郎の遺書」とある。
柴五郎は会津藩士の子に生まれ、
後に陸軍大将にまで昇進する軍人で、
北清事変の際、
北京の外国公使館区域の二カ月にわたる籠城戦を指揮、
その時の冷静沈着な行動が世界の称賛を浴びた。
その柴が10歳の時に戊辰戦争が勃発、
自らは難を逃れるが、
会津落城とともに祖母、母、姉、
そしてわずか七歳の末妹さえも自害、屋敷は消失する。
晩年は多摩川畔に老いを養うも、
胸に去来してくるのは
故郷の山河や地下に眠る祖父母姉妹の懐かしき顔ばかり。
彼らの無念を思うと胸が塞がり、
《懊悩流涕やむことなし……》。
非業の最期を遂げた妹らに寄せる思慕の情は、
切々と読む者の心を打つ。
私はことさら薩長を憎むものではないが、
火中の栗を拾わされ、
いわば心ならずも貧乏くじを引いてしまった会津藩には、
心よりのシンパシーを感じている。
尊皇愛国の誠心を有するも朝敵とされてしまった松平容保公。
私たちはこの不運な藩公を戴いた会津の土地と人々に対して、
もっと温かい眼差しを向けてやるべきだろう。
会津藩は武士道を純粋に昇華した古今未曾有の藩として知られ、
司馬遼太郎も
《封建時代の日本人がつくりあげた
藩というもののなかでの最高の傑作》
(『歴史を紀行する』)と評している。
白虎隊が自刃した飯盛山の墓前までは、
今はエスカレーターが通じている。
正面には苔むした19基の小さな墓。
墓碑銘を読めば、数えで一六〜一七歳の少年たちばかりだ。
この国にはかつて、
「名こそ惜しけれ」の精神に殉じ、
従容と死を選んだますらおたちがいた。
そのますらおは今何処、などとヤボはいうまい。
往時茫々たる思いがする。
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