第92回
草莽に生きる (その二)
草莽という言葉から思い出されるのは、
徳川の遺臣で、請われても生涯、
明治政府に出仕することのなかったある人物のことだ。
「幕末の三舟」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
勝海舟、山岡鉄舟は挙げられても、
よほどの歴史好きでない限り
高橋泥舟の名を挙げられる者は少ないだろう。
海内無双と謳われた槍の名人で、講武所槍術教授となるが、
後に伊勢守を叙任、幕府が鳥羽伏見の戦いに敗れた後は、
徳川慶喜の護衛役を務め、
その任を解かれた後も二度と再び仕官することなく、
草莽に隠れて生涯を終えた。
山岡鉄舟の義兄でもあり、
長兄はその早世が惜しまれる紀一郎こと山岡静山。
この静山が泥舟を凌ぐ槍の遣い手で、
甚だ魅力的な人物であったのだが、そのことはひとまず措く。
私は「三舟」のうちの海舟も好きだし鉄舟も好き、
しかしとりわけ泥舟の
人物、生き方に強く魅かれるところがある。
明治政府への出仕を請われたとき、
「総理大臣ならやってもいいよ」と答えたという、
人を食ったような洒落っ気もいいし、
仕官しない理由を
《狸にはあらぬ我身もつちの舟 こぎいださぬがかちかちの山》
と「かちかち山」にかけて狂歌に詠み込む
明るい茶目っ気もまたいい。
海舟は泥舟同様、徳川の禄を食んだ身でありながら、
明治政府に出仕し、位人臣を極めて伯爵にまで栄達する。
その旧恩を忘れたかのような生き方に対し
異を唱えたのが福澤諭吉だ。
福澤は『痩我慢の説』の中で
海舟の変節は士風を傷なうと激しく難じた。
しかし海舟は
《行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張》
とやんわりこれを斥ける。
私には福澤の言い分もわかるし、勝の気持ちもよくわかる。
そしてまた、高橋泥舟のように潔く野に下り、
隠逸の人になってしまった男の気持ちもよくわかるのだ。
私は人間の生き方を多く書物から、
それもとりわけ歴史から学んだ。
三舟のような腰の据わった人物を、
平成の世に見出すのは至難の業だろう。
人は多く体験によって学ぶというが、
人間ひとりの体験から学べるものなど高が知れている。
それより偉人傑人の宝庫である歴史から学んだほうが
どれほど有益なことか。
泥舟はこんな歌も詠んでいる。
《野に山によしや飢ゆとも蘆鶴[の
群れ居る鶏の中にやは入らむ》。
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