| 第32回友だち100人作るんだ? (その二)
 こんなところで持ち出すのはとても気が引けるのだが、《友の憂いに我は泣き、我が喜びに友は舞う》
 なんて歌がある。
 旧制一高の寮歌で、真の友情とはかくあるべし、
 とする説教じみた話によく引用される歌のひとつだ。
 真の友情なるものを知らない私には、
 今ひとつ現実ばなれした歌詞に思えてならないのだが……。
 正直にいおう。一度や二度なら友の喜びをわが喜びとし、共に祝いもするだろう。
 が、おめでたがたびたび重なった場合はどうか。
 はたして心から祝ってやれるかどうか、
 どうにも自信が持てないのである。
 たとえば受験生のあなたならどうか。
 共に頑張ろうと合格を誓い合った仲でも、
 いざ友がわれより偏差値の高い学校に受かってしまうと、
 もう素直に喜べまい。
 逆に友が不合格と聞けば、同情を寄せつつも、
 心の片隅にどこか浮かれ立っている自分を発見するだろう。
 だからといって、おのれの心の貧しさ、偽善者ぶりを嘆く必要などない。
 よほどの聖人君子でない限り、人間なんて所詮そんなものだし、
 世間でいう友情なるものの正体もその程度のものだからだ。
 友情なんてかりそめのものだ。
 とりわけ女性は、恋する男ができたり結婚したりすると、
 美しき友情などたちまちメッキが剥げてしまう。
 ウソだと思ったら、中学高校時代の同窓会に出てみればいい。
 女たちのおしゃべりは亭主自慢とこども自慢に費やされ、
 かつての親友の話などろくすっぽ聞いてやしない。
 そんな紙よりも薄い友情を信じるくらいなら、いっそ書物の中に心の師や友情を求めたほうが遙かに利口だ。
 移ろいやすい生身の人間の友情は容易に壊れやすいが、
 書物の中の友情にはそれがない。
 目黒のサンマではないが、友だちは書物の中、
 それも死んだ人間に限る、と私はまじめに思うのだ。
 「あなたみたいに頑固でつむじ曲がりの性格じゃあ、敵はこさえても、まず友だちなんかできっこないわね」
 と女房だって太鼓判を押してくれている。
 これはもう立派な才能というべきだろう。
 友だちなんか要らない。
 だから若者よ、「友だちがほしい」などと
 哀れっぽい科白を吐くんじゃない。
 なに、愛人がほしいだと?
 バカ、それはこっちのいいたい科白だ。
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