第3回
しつけは押しつけ
近所に娘たちから「修ちゃん」と呼ばれているおやじがいる。
「お父さん!」ではなく「オサムちゃん!」だ。
この、名前で呼び合うところがいいんですよ、
とオサムちゃんは少しも悪びれない。
私などは正直、(気味がわるい)と思ってしまうのだが、
オサムちゃんは呼びかけられるたびに
邪気のない笑顔を見せるのだ。
この手の“俗流平等主義”という流行り病を罹っている人間は
教育現場にもウジャウジャいる。
「生徒と同じ目線に立つ」を合い言葉に、
あろうことか教壇まで撤去し、
文字どおり教師と生徒との段差を無くしてしまった。
が、一方で、「私たちは労働者」なのだから
プライベートを優先させ、
クラブ活動の顧問などは御免こうむりたい、
などとおっしゃる。
これじゃあ「二十四の瞳」や「聖職の礎」なんて名画を見せても
豚に真珠だろう。
教壇から降りて生徒にすり寄る教師がいれば、
子供とは友だち感覚でつき合いたい、
と曰うおとっつぁんもいる。
権威主義はきらいと若者たちの肩を持ち、
物わかりのいい顔をすれば、
自分は親として教師として、
衆にすぐれた進歩的な考え方の持ち主ではなかろうかと、
つい錯覚してしまう。
ところがどうだ。
この手合いが教え導いたという子供たちは、
教室や家庭内で放埒放恣の限りを尽くし、
外にあってはあられもない風俗を
疫病のごとくまき散らしている。
「教える者」と「教えられる者」が
なぜ対等でなくてはならないのか。
教師は人生の先輩でもあり、
知識を授けてくれる知のエキスパートではないか。
別段、三尺下がって畏まらずともよいが、
そこにあるのは厳然とした上下関係で、
教師の権威を失墜させるような
“友だち先生”など百害あって一利なしなのだ。
「子供の自主性を尊重したい」などと
猫なで声を出す教師は、タマ無しの宦官同様、
生徒から侮られるのがオチなのである。
子供なんてどう転んでも、
親や教師の思いどおりになりっこない。
身勝手な思いつきしか持ち合わせのない子供の気持ちなど、
ハナから尊重する必要などないのだ。
それより親のエゴを押しつけ、
理不尽さに耐えるこらえ性を養うことのほうが先だろう。
教育も躾も半分は“押しつけ”だ。
その押しつけへの反発が子供の自我を鍛えるのである。
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