第152回
台湾での体験を追記した新版『私の金儲け自伝』
邱さんは昭和46年に『私の金儲け自伝』を書いたあと、
台湾に帰ることになりました。
それから5年たった昭和52年5月、
台湾を行き来するようになってからの考えや行動を記録した
「台湾へ帰るの記」を追記して
新版『私の金儲け自伝』を徳間書店から刊行しました。
この本の最後のところで邱さんが書いていることを引用します。
「私は台湾は大陸とは別の国になったほうがいいと
主張したために国民政府のお尋ね者になり、
この調子では一生、国へ帰れないかも知れないという覚悟もした。
それが星月移り、時世も変わったために、
逆に向こうから帰ってくれ、と迎えられることになった。
その上、全台湾の新聞、テレビが
私の帰国を宣伝してくれたおかげで、
私は誰知らぬ者のない存在となり、
道を歩いていても知らない人から挨拶される。
もし私が新聞に毎日、
写真の載るような政府の要職を占めていたら、
人に知られることは同じかも知れないが、
自由に物を言い、路傍の露店に腰をかけて、
陽春麺を食べる自由を持たないだろう。
私の中には、経済人としての計算高さと、
作家としての反骨精神、自由奔放さが同居していて、
いまだにどちらか一方を捨ててしまうことができないのである。
現に、この文章を書いている現在でも、私は成功者ではないし、
今後もそういう部類には入らないだろう。
私は幸いにして生きているうちに故国の土を踏むことができたし、
年齢的にまだ仕事のやれる時期に帰ったので、
台湾の経済建設、文化的な事業、さらに日本と台湾を結ぶ仕事と、
やるべき仕事をたくさん抱えている。
しかし私の陰には政治活動をしたために銃殺にあったり、
台湾の東部の緑島という離れ島で
いまだに刑務所生活を送っている人もある。
それに、台湾の将来をどうするのか、
という問題も未解決のままである。
だから私の人生はまだ勝負が終わったわけではない。
しかし、私は安定を求めるような人生には用はない。
自ら常に不安定の中において、
苦痛の中に一種の恍惚感を味わおうというのが
私の生き方だからである」(新版『私の金儲け自伝』)
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