Qさんの本を読むのが何よりスキ
という戸田敦也さんがQライブラリーのガイド役をつとめます

第141回
邱さん、人生2回目のピンチに遭遇

昭和48年の年末、第一次石油ショックにぶつかり
邱さんは胃から血を出し、1月、新宿西口にある
朝日生命成人病研究所に入院しました。
邱さんは昭和39年の第一次石油危機のとき、
ピンチにあって「死にたい」と弱音を吐き、奥さんから
「お金には命を賭けるだけの値打ちはない」と
たしなめられました。
そのときを1回目のピンチとすれば、2回目のピンチです。

「第2回目のピンチが、石油ショック後の昭和49年に訪れた。
前回のピンチ(昭和39年)から10年の間に、
私は自宅も含めて7軒のビルと建物を完成し、
東京では8軒目のビルを新宿や靖国通りに新築中であった」
「機関車が同時に10台も動き出したような勢いで
約20社ばかりの合弁会社や新規投資事業に
全力を注いでいる最中」(「朝は夜より賢い」)でした。

その折も折、第二次オイルショックが襲ってきたのです。
「石油ショックで物価は暴騰し、
原料はあがるのに製品は値上げできない。
大損するか滞貨の山ができるかのどちらかである。

被害を受けたのはもとより私一人ではなかったが、
私の関係した仕事でいえば、
礼服を加工して日本に売る工場が
1億4千万円の損失、肉牛を飼育する牧場が4千万円の損失、
剣道具の加工場が6千万円の損失、
養鰻場は社長に雇った男に1億円持ち逃げされて一頓挫、
冷凍食品工場は豚肉の暴騰のため輸出を禁止されて一年間、
開店休業、家具の工場が赤字の上に受注が途絶え、
新しくつくった工場団地の土地はさっぱり売れず、
これらの企業の赤字がどっと私の肩にのしかかってきた。
右を向いても左を向いても、金、金、金といわれ、
金がなければ工場が立ち行かなくなってしまう。
こういうときはどこに相談に行っても相手にされないから、
私はジッとそれに耐えていたが、
とうとう胃から出血して、入院してしまった。

台湾に私が24年ぶりに帰った話は、
台湾中の新聞に大きく報道され、
多くの人が私の動向に注目している。
私が東京で入院したことがわかると、
『台湾の外資導入政策が氏の予想に反して、
意外に排他的なために、邱永漢氏は病気になって、
入院してしまった』と雑誌に書かれたりした。

政府のお役人のやり方には、
たしかにそういう面があったことも事実であるが
私が病気になった本当の原因は、
やはり何もかもうまく行かなくなって、
どうしてよいかわからなくなってしまったからであろう。

のちに『あなたの健康法は?』とジャーナリストにきかれて、
私は『中年をすぎてからの最高の健康法は
事業に失敗しないことです』と答えたことがあるが、
少しでも体験のある人は
私のこの意見に賛成してくれるに違いないと思う。」
(『朝は夜より賢い』)


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2003年1月15日(水)

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