第126回
台湾の国民政府の使者が邱さんに台湾への帰国を要請
台湾の中華民国政府が亡国の危機に瀕するという事態になり、
そのお尋ね者であった邱さんのところに、
故郷に帰らないかのお誘いがかかってきました。
「私が半生記を書き終わって、
自選集の出版をはじめた秋口に、突然、台湾の国民政府が
国連から追放されるという事件が発生した。(略)
もしそうだとしたら、それは私が半生記の中で主張した
台湾のあるべき姿に一歩も二歩も近づいたことになる。
物の考え方に特許があるかどうか知らないが、
もし私の考え方に近いところまで歩み寄りがあるのなら、
私のところに何らかの働きかけがあるのではないかと
第六感が働いた。はたして年の暮れになると、
国民党の本部から使いの人が来て、
帝国ホテルで一夕、飯を食い、
私に台湾へ帰らないかと誘いがかかった。」
(『私の金儲け自伝(新版)』)
「私が台湾をとび出して香港へ逃げたのが
1948年であり、当時はまだ24歳の青年だった。
昭和29年から東京へ舞い戻って物書きになり、
この言論の自由を享受するようになったので、
台湾島内にいて物がいいたくてもいえない人たちに代わって
少し意見を述べる必要があると思った。
そこで昭和32年『中央公論』7月号に『台湾人を忘れるな』、
昭和33年に『文芸春秋』10月号で
『一つの中国・一つの台湾』を書き、
台湾は中国とは別の独立国になったほうがよいし、
またなるだろうと主張した。」
(「新しい日台間に外交関係はいらない」『金儲け未来学』に収録)
「その私に『台湾に帰れ』という誘いがきたのである。
私は『時期がまだ少し早いと思うが、よく考えてみる。
私は台湾は独立して別の国になった方がよいと思っているが、
共産主義の嫌いな中国人が
この地球の上に住むところがないというのは、
人道上から見ても理屈にあわないことだから、
外省人を完全に排除した台湾を考えているわけではない。
その旨、よろしくお伝え願いたい』と謝意を表して別れた」
(同上)
|