第64回
初の新聞小説「ズルきこと神の如し」は日本人社会が舞台です
デイリー・スポーツから邱さんに連載小説の依頼がきました。
当時、邱さんは「日本人が一人も出てこない小説ばかり書く」と
言われていました。
そこで新聞への連載にあたっては日本人社会を舞台にした小説を
書くことにしました。
執筆した小説のストーリーについて邱さんがあるところで書いています。
「私はスポーツ紙の読者はどんな人たちであろうかと考えてみた。
スポーツ紙は朝の電車の中で読まれるものである。
読む人の大半はもちろん、サラリーマンである。
昨日のゲームの興奮がまだ醒めやらない状態のもとで、
もう一度、同じことをかみしめるために、活字を追う。
それはほかにもっと興奮をかきたてられることのあまりない人々の
心の糧みたいなものであるから、
大抵の人が倦怠に近い心理状態にある。
ことに当時のスポーツ紙が一部10円であったのに対して、
デイリー・スポーツは半額の5円であったから、
たったの5円を惜しむサラリーマンともなれば、
なおさらのことではないかと思った。
そこで私は子供雑誌の編集長として抜擢された
30すぎの独身青年が、懐中に辞表を忍ばせて
社長室に入って行くところから小説を書きはじめた。
辞表をつきつけられた社長は、
とっさに他社から引っこ抜きがあったに違いないと思う。
引っこ抜きに対抗するためには、待遇の改善をするとか、
ボーナスに特別の条件をつけるよりほかないと社長は観念をした。
しかし、あれこれきいてみるが、
他社から引っこ抜きをされているという様子でもない。
実際にもそういうことは全くなく、
ただ編集者としては恐らく絶頂にのぼったところで、
自ら失業の道を選び、
そこから賽を投げる人生を選んだまでのことだったのである。
主人公は雑誌社をやめて犬をつれて散歩している途中で、
同じく犬を連れて散歩をしている落選代議士と知り合いになり、
その選挙参謀になって、代議士を返り咲かせる。
代議士はそれをトクとして、
自分の選挙区のスポンサーのひとりである
地方の資産家の一人娘に娶わせようとする。
一人娘だから婿養子にという条件をつけられたが、
それを蹴って、将来は妻の家の事業を継ぐことは
考慮に入れようといって、結婚に応ずる。
しかし、代議士のセンセイの手伝いも一段落したから、
こちらも辞めさせてもらうことにして、久しぶりに上京して、
昔、自分が勤めていた神田の出版社街を通りかかる。
すると、古巣の雑誌社に赤旗が立ち並び、首切り反対、
賃上げ闘争のストのバリケードができている。
『なあんだ。まだこんなことをやっているのか』
とうそぶきながら、遠ざかって行くというストーリーである。
題して『ズルきこと神の如し』」
(『貧しからず富に溺れず』昭和60年)。
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