Qさんの本を読むのが何よりスキ
という戸田敦也さんがQライブラリーのガイド役をつとめます

第32回
「濁水渓」を執筆し、「大衆文芸」誌に発表してもらいました

邱さんは九品仏駅近くの一戸だての家を借り、この家で
姉さんから借りた中古の机と椅子を使って執筆にかかりました。
最初に取り組んだのが小説「濁水渓」です。
「一篇が百枚ずつの三部作になった小説で、その内容は、
 第一部が戦争中、東大に留学していた台湾人の学生が志願兵になることを
 拒み、日本国中逃げ回る話であり、
 第二部は戦後、夢を抱いて台湾へ帰ってきた青年が2・28事件という
 反政府運動に巻き込まれ、失意のうちに台湾を脱け出す話」
(『邱飯店のメニュー』)です。
邱さんはこの「濁水渓」も前作の「密入国者の手記」同様、
「大衆文芸」誌に掲載してもらいました。
ただ活字になった「濁水渓」を読み、
掲載されている雑誌と自分の小説との間に大きなギャップを感じました。
このときの心境を邱さんは次のように書いています。
「長谷川先生をはじめとして、
 周囲の人はたいへん親切に面倒を見てくれたし、
 激励の言葉もあまたちょうだいしたが、
 私の書く物と、すぐにも歌舞伎や新国劇の世界は
 なんとも世界が違うような気がしてならなかった。
 『知』と『情』の違いといったら叱られかもしれないが、
 もし文学に『知性の文学』と『情熱の文学』があるとしたら、
 その違いとでもいったらいいだろうか。
 私が考えている文学と、私の周辺にいた人たちの文学には
 異質のものがあって、それが私に苛立ちを与えるので、
 私は誰かに救いを求めたい気持ちを禁ずることができなかった」
(『邱飯店のメニュー』)と。
その時、ふと浮かんだのが当時活躍していた檀一雄さんです。
邱さんの東大経済学部の2年先輩に郭徳焜という檀一雄さんの友人がいて、
郭さんから何回も檀さんのところへ行こうと誘われながら、
そのままにしていました。
邱さんはその後、香港と日本を往復する間、檀さんの最新作に接し、
檀さんがいま売り出し中の作家になっていることを知っていました。
そこで檀一雄さんに「濁水渓」を掲載した「大衆文芸」を送り、
「郭君や自分や台湾に帰ってから起こった出来事を
 小説に書きましたので読んでください」
という趣旨の葉書を添えました。


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2002年9月28日(土)

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