第19回
ないないづくしの異国流浪が始まりました
邱さんのエッセイに
「『少年の夢』が男を旅に駆り立てる」
(「金銭通は人間通」収録)
という作品があります。
このなかで邱さんは香港に亡命した頃
のことを書いています。
「香港に流れて行った当時は(1)金も持たず
(2)言葉も通ぜず(3)学歴も役に立たず
(4)友人も持たず(5)就職もできず、
まったくないないづくしの異国流浪から始まった」と。
お金についてはふところに千ドル持っていましたが、
二度と故郷へ帰ることは期待できず、この先、
一生、異郷で流浪する身にとって、心細い金額でした。
言葉については台湾語と広東語は
フランス語とドイツ語ほどにも違っており、
お互いにまったく通じませんでした。
学歴については、香港の人には何の効果もなく、
例えばのちに知り合って結婚した奥さんは、
東京に移り住むまで、邱さんが東大出であることも、
また東大がどういう性質の学校であるかも知りませんでした。
友人については、一人の同郷人を頼って居候しましたが、
香港で知っている人は誰もいませんでした。
また就職については、台湾で銀行に一年間仕事をしましたが、
以降組織勤めすることはありませんでした。
日本の江戸時代の中期、林子平という人がいました。
海防の必要性を説きましたが、人心をまどわすと、
幕府から出版物と版木を没収された上、
蟄居を命じてられました。
その心境を
「親も無し、妻無し、子無し、板木無し、金も無けれど死にたくも無し」
となげき、自ら六無斎と名のりました。
「この六無斎こと林子平に比べれば、無いものが5つだったから、
まだ一つ少ない。しかし、さすがの私も弱気になって
一時は万事休すかと思いつめたこともあった」
と邱さんは書いています。
「持ち金がだんだんなくなって飢え死にするのではないか」
という恐怖心が邱さんを襲っていました。
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