第18回
タッチの差で香港に亡命しました
香港に飛び台湾独立の密使役を果たしてから
しばらくしてのことです。
邱さんがある朝、銀行の研究室の
机の上の新聞を開くと、
国連からAP・UP電で
台湾独立連盟から国民投票の請願書が来ていること、
それに対し台湾省参議会議長、黄朝琴が
激しい調子で反駁していることを伝える記事が目に入りました。
とっさに邱さんは身に危険が迫ってきたことを知り
荘要伝さんとともに香港に飛ぶことを決めました。
1948年(昭和23年)10月20日のこと、
自分が台北で占拠していた住居に権利金が生まれていたので、
売却してお金を手にしました。
荘要伝さんから無心されていたので手にした残りのお金の半分、
百万元を荘要伝さんに渡し、残金の半分を母親に渡しました。
母親から
「政治家の人たちにうまく利用されないように」
と励まされ、
10月21日、手元に残った千ドルのお金を持って、
台北の松山飛行場から香港に飛びました。
一時間あとに台北を発った荘要伝さんと
ペニンシュラホテルの玄関の前で落ち合いました。
のちに知ったところによれば、香港に飛んだ翌々日の23日、
台湾の警備司令部の捜査員が
邱さんが勤務していた銀行を捜索しました。
タッチの差で香港に逃げたことになります。
香港に亡命した邱さんは、荘要伝さんと一緒に、
香港九龍側金巴利道諾士佛台一号の
廖文毅邸の一階に居候することになりました。
以後、邱永漢さんは
「台湾の国民政府からのA級国事犯のお尋ね者」
となりました。
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