Qさんの本を読むのが何よりスキ
という戸田敦也さんがQライブラリーのガイド役をつとめます

第15回
台湾独立ほかに道なしと考えるに至りました

1947年の2月28日に、台湾で起った騒動を前に、
台湾人の有力者は唖然とし、
しばし、なすところを知りませんでした。
しかし、無政府状態のまま放置しておくこともできません。
省参議員や台北市会議員が中心になって、
2・28事件処理委員会を結成しました。
会議は連日のように台北市の真ん中にある中山堂で行われました。

当時、23歳の邱さんも仕事をほったらかしにして、
中山堂まで出かけていきました。
邱さんは、まだ年が若かったし、
有力者たちの目から見たら、物の数にはいらなかったから
会議室には入れてもらえませんでした。
台湾人の有力者たちは治安維持にあたる一方で、
陳儀を相手に政治交渉をはじめました。
陳儀は、形勢が悪かった間、処理委員会が提出した
市県長公選、専売局長の更迭などの要求を
全面的に受け入れました。
しかし、交渉をダラダラと引きのばしている間に、
蒋介石に援軍の密電を打ち続けました。
アメリカ式の新装置を身につけた精鋭部隊が基陸に上陸しました。
上陸部隊は抵抗する民衆に容赦なく機銃掃射を浴びせ、
基陸港は銃殺された台湾人の死体で埋りました。
国民党の軍隊は破竹の勢いで台北に進み、
2・28事件処理委員会のメンバーたちは
いつの間にか、共産党の赤帽をかぶせられ、
逃げ遅れた者や、自分は悪いことをしてないと信じて出頭した者は
そのまま不帰の客となってしまいました。

この逆襲は容赦ないもので、機銃掃射により
5千人とも1万人ともいわれる台湾住民が虐殺されました。
こうした事件を前にして、邱さんの怒りは心頭に達し、
台湾住民の将来のためには
台湾を蒋介石の統治から切り離す以外に道はないと
確信するようになりました。


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2002年9月11日(水)

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