第7回
進学先は文学部でなく経済学部です。
実は邱さんは16歳、台北高校2年生のときの夏休み、
一人で船に乗って
神戸→東京→京都→大阪→神戸のコースで
日本内地を旅行しています。
そのとき見た東京の印象が強烈で、
しばらくは台北に帰っても「上の空」だった
と書いた文章を読んだことがあります。
だから大学は東大に決めていたのでしょうけど、
学部は文学部ではなく経済学部にしました。
「文学部ではなく経済学部を選んだことは
学校のクラスメイトや教師たちを驚かせた。
私の文学かぶれはあまねく全校生徒に知れ渡っており、
私が文学部にすすむのは当然のことと思われていたからである。
私がそうしなかったのは、植民地台湾に生まれた私のような人間が
将来、文学を志しても生計を立てていく自信がなかったからである。
たいていの本島人のクラスメイトは医学部を志望する。
文学系の卒業生でさえ途中から医学部に鞍替えをする。
このほうが差別待遇されずに活きて行ける最も安全な道だったからだ。
私はすでに十九歳になっていた。
もうその頃には差別待遇に慣れてしまい、
将来、大学を出たら台湾には戻るまい、
できれば上海のような国際都市に行って、
租界のようなところで国際貿易にでも従事して暮らしたい
と思うようになっていた。
そのためには文学部ではやっぱり具合が悪かった。
少しばかりの経済の知識があって、人に使われても、
自分で独立しても何とかやっていけるようにしなければならなかった。
それが自分の本心だけれども、
こんなことは誰にでも言えることではない。
植民地に生まれた者は若い時から、
本当に自分が心の中で思っていることを
心の中にしっかりしまいこんでしまう修練を身に着けなければ、
身の安全を全うすることはできなかったのである。」
(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)
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