ナポレオンはなるほど英雄であったかもしれない。その治績を見れば、政治家としてもあるいは群を抜いていたかもしれない。けれどもフランスの歴史上、ナポレオンはたった一人しか現われていないのに、フランスには一日たりとも政治がブランクであってよい日はなかったのである。他のおそらくはナポレオンよりはるかに凡庸な政治家たちに、ナポレオンと同等の腕前を期待することはもともと不可能なことだし、かりにそういうことを期待していたら、フランスはもはや世界地図からその姿を消していたにちがいない。
政治家の腕に期待することはつねに危険なことである。そういう命賭けの冒険をするよりも、十人並みのボンクラでも大過なく運営していけるような政治機構を作ったほうがよい。この考え方は現代人にとってはほとんど常識となっており、今日の政治機構は、国によって多少のニュアンスはあるが、だいたい、この方向に進んでいるとみることができる。
君主が絶対的な権力をもった独裁専制の時代に、韓非がいち早くこの考え方に到達したのは、韓非が将来に対する見通しをもった予言者であったからではなくて、むしろ彼の時代に独裁者の地位におかれた諸国の君主たちが大部分、中、もしくは中以下の人物であったからであろう。そうした無能な人物が権力の座にすわらされたために、いかに笑うべき(しかし、人民の立場からみればとても笑うどころでない)茶番劇がひき起こされたかを、彼は目のあたりに見てきた。
無能力な君主にかぎって無数の陣笠によって十重にも二十重にも取り囲まれていた。彼らはことごとく君主に取り入って身の繁栄をはかることしか考えていない。そのためにはいかなる手段をも辞さなかった。韓非は君主の言動を左右し、ひいては君主の地位を脅かす力を八種類に分けている。まず第一に同床すなわち奥方、稚児、美女のたぐいで、彼らは夜伽のすきに乗じて君主にねだる。第二はかたわらにはべる者、すなわち、俳優侏儒および侍従小姓のたぐいで、彼らは主人が命じなくともすばやく主人の意を迎える者である。
第三は父兄すなわち君主の寵愛する者の親戚縁者の力である。
第四は、養殃(ようおう)、すなわち君主がその好みに従って金殿玉楼を建てたり、あるいは子女を飾りたてたりする傾向、第五は民萠(みんほう)、すなわち人民のなかで政府の予算を使って自分の人気取りをやる者、第六は流行、今日のことばでいえば、いわゆる平和論者のごとく巧みなる言辞をもって世をたぶらかすもの。第七は人民をおどかして自分の味方につける者、これを威疆(いきょう)と呼ぶ。最後に、四方とは、国の四隣を囲む国々で、とりわけ小国の場合には自存のために強国の力に頼ろうとしがちであるが、史実の教えるところによれば、強国に頼ろうとした国は頼ろうとしなかった国よりも速やかに滅びているのである。
こうしたあらゆる方面からの影響を巧みにかわすことは、有能な君主にとってさえも、至難事に属する。凡庸にして決断力のない君主にとってはいわずもがなである。そこで韓非は、誘惑に動じない唯一の方法として、「君主は無為でなければならない」という、どちらかといえば、老荘思想と共通する考え方に到達した。もちろん、「無為にしてなす」ということは、有為よりもいちだんと困難であって、好きな女と楽しみながら、しかもその女の言うことを聞いてやらないことを凡骨に要求することは不可能である。だから、聞いてやりたくとも聞いてやれないような権限の制限をすること、いいかえれば、君主の権限と政治機構を分離することを韓は提案した。
「君主も国民も安全と利益を願う心は同じだが、その立場が違う。君主は自分の考えに国民が応じてくれないのが悩みのタネであって、いってみれば片方の手だけで拍手をするようなものである。いくら早く動かしても音の出るはずがない。国民の心配は一人のよい指導者を上にいただけないことである。指導者がなくて、しかも国の治まるのを願うのは、ちょうど、右の手で円を描き、左の手で正方形を描くようなもので、二つながらにできないであろう。政治のうまくいっている国は、だから、太鼓を打つ棒と太鼓が二つながらにそろっているようなものであり、また、官職を馬にたとえ、人民を馬車にたとえるならば、君主は御者のごときものである」(功名)
すでに法の規準があり、政治のタクトがあるならば、騎馬の名手ならずとも、この政治という駅馬車の御者をつとめることができるであろう。
かくて君主は行政上のこまごまとした雑事から解放されて、あたかも雛壇の上のお内裏様のような存在になる。彼および彼の一家は外国から来た使節と晩餐をともにしたり、議会の開会式や閉会式に出席して、「おことば」を朗読したり、また勲章を与えたりする国の象徴になっておればよく、それ以外の時間の余暇には魚のあとを追っかけようが、貝殻の収集をしようがいっさい彼の自由である。そして、一国の政治は、彼が英主であるか愚主であるかにかかわりなく運営されていくのである。
今日、いわゆる民主主義の流行するにつれて、一国の政体が君主制であるべきか、または共和制であるべきか、いぜん議論にかまびすしいものがあるが、現に存在している君主制がほとんど例外なく「お雛様」的なものであることを思えば、この議論は、薬を飲むときは水を用うべきであるか、それとも湯を用うべきであるかという議論の域をいでないことがわかるであろう。なお、職業としての君主は必ずしも楽なものではないから、一代制にしたほうがよくないかという同情論も考えられないではないが、これは本人の意志を聞いてみなければわからない。
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