韓非は、人間を教育によって善人に仕立て、仁義や愛によって理想社会を作ろうと考えるよりは、人間は本来悪党であり、他人の利益を蹂躙してでも自分の利益を図ろうとするものである、というところから出発した。これは彼が正義を否定する立場にあるからではなくて、世に正義をうんぬんする人間どもが一皮むけば利己主義の塊であり、醜状顔を覆わしめるものがあるという事実を大胆率直に認めているまでのことにすぎない。
彼のこうした人間観は、実は当時の宮廷ないしは宮廷中心の政界を反映したものであった。もう一つの原因は、為政者に徳行を勧め、善を期待する儒教的思想に対する強烈な反発であろう。彼は為政者に善を期待するよりも為政者を悪党とみなして、政治機構を組み立てるほうがより安全であり、よりいっそう効果があると考えたのである。
「だいたい、世間では、人をだまさないような正直な人間を珍重しようとする傾向がある。しかし、人をだまさない人間を珍重する人間は必ずしも人にだまされない人間ではない。
貧乏なあいだは誰しもへだたりなくつきあうが、金持ちになってもお互いに助けあう者は少なく、片方が権勢を得てのちも、なおお互いに一目おく人間は非常に少ない。しかもなお、いや、それゆえに、正直者を求めてやまないのである。もし君主が人を制する勢力を持ち、国を背景にして賞罰の権限を握り、人にだまされないだけの術を体得しておれば、田常や子罕のような好臣がいてもけっしてだまされたりはしないであろう。どうして正直者を期待する必要があるであろうか。いま、信用のおける人間は十人もいないのに、役所のイスはその十倍にも及ぶ。もし正直者だけを任用すれば、イスは空いてしまうし、治める者がいなければ、世の中は乱れてしまうだろう。だから名君たるものは知者を求める代わりに法を適用し、正直者を登用する代わりにだまされないように心がけるのである。法がよく守られれば、官多しといえども姦は無いであろう」(五蠧[ごと])
「荊南という所は河の中から砂金が出る。砂金を盗めば車裂きの刑に処すると布告されていたが、車裂きの刑に処せられる者が多かった。河に囲いをしてもなお盗人のあとが絶えなかった。これは車裂きの刑が怖くなかったからではなくて、盗んでも捕えられるとはかぎらなかったからである。ところが、いま、かりに天下をおまえにやろう、その代わりおまえを殺すぞ、と言えば、どんなボンクラだって名乗りでるようなことはない。なるほど天下を取れば、大いなる利益があるけれども、必ず殺されることを知っているからである。
それゆえに必ずしも法律の網にひっかからないことがわかれば、車裂きでおどかされてもなお盗んでやまないし、必ず殺されることがわかれば、天下をやろうと言われても誰も名乗りでてこないのである」(内儲説上)
これを現代の社会に適用すれば、さしずめ次のようになるであろう。
「政治家および役人諸君、われわれ国民は君たちが仁義の士であり、黙っていても善を行なってくれる人間であるとは思っていない。しかし、もし諸君が無能であれば、われわれはリコールその他の方法に訴えて諸君を現在のイスから引きずりおろすであろうし、またもし諸君が収賄汚職等の不正を行なえば、必ず牢屋へ入れるであろう。必ずということばに留意してもらいたい」

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