道徳は六本目の指

「自然に生きよ」という主張の当然の帰結として、荘子は人間社会に幾重にも張りめぐらされている約束事をすべてよけいなものと考えた。なかでも「仁義礼智信」のごとき儒教的な道徳観念は、人間が自然に生きることを妨げるものとして敵視したのである。
「親指と第二指が付着した四本指の足や六本指の手は生まれつきであるけれども、人間の持物としては、よけいなものである。コブやイボは自ら生じるものであるけれども、これもよけいなものである。道徳もまた五臓に自然につらなったものであるけれども、それが過剰なときは同じく正常とはいえない。それゆえ、六本指の感情をもった人間は仁義仁義とやかましく、盛んに利口ぶる。けれども、もののよく見えすぎる者は色彩感覚が混乱するし、耳の聞こえすぎる者は自然の音を聞くことができない。仁義という六本指をもった人間は、自然に備わった徳を骨抜きにすることによって、名声を上げている。弁舌という六本指をもった人間は詭弁を弄して論理的な正確さを争うが、せいぜい、むだな労力を費やして心を消耗させるだけである。
離朱とか師曠とか曾参史魚とか楊朱墨翟とかいったそれぞれの道の代表選手はみんな他を排斥して自分の能を争う徒輩で、六本指の道を歩むものといってよい。彼らは自分たちこそ正常で、他の人間は六本指だと思っているが、五本指も六本指もまた四本指も実はそれぞれ正しいのであって、足が長かろうが短かろうが、みなそれでさしつかえないのである。
鴨の足が短すぎるから、もっとたしてやれといえば鴨はびっくりするだろう。鶴の足が高すぎるから、切って捨てろといえば、鶴は泣くだろう。生まれながらに長いものは長い足をけっこう上手に使うし、生まれながらに短いものもまたそれが短いとは意識しないものだ。しかるに世に行なわれている仁義は、他の足が長すぎるの短すぎるのといらぬ心配をする。もし四本指は少なすぎるからとくっついている指を裂いたら裂かれた当人は泣くだろう。六本指は多すぎるからと一本切り落としてしまったら切られた当人はわめくだろう。多い者でも少ない者でも、五本指に合わせろといわれれば心配は絶えないものである。
いま、仁義の士は、やたら天下国家を憂い、不仁の人は富貴を貪ることに生命を賭ける。
かような仁義は、本来自然に備わったものではないというよりほかない。三代以後、世の中は実にケンケンゴウゴウで、物差しを使って他人の長短を正そうとする者ばかりである。
これは人間の天性をけずるものでなくてなんであろう。縄でしばったり、膠でくっつけたりするのは自然に傭わった徳を侵すものでなくてなんであろう。礼楽や仁義をもって天下を治めようとするのもまたしかり。元来、自然とは曲がったものをまっすぐにしようとせず、まっすぐのものを縄でくくろうとせず、離れたものを無理にくっつけ合わせようとしないことである。みなそれぞれ自然のままに放任すれば、ものは自ら生じて、しかもなぜ生じたかを問題としない。したがって、むかしはどうだった、いまはどうだ、という議論は生ずるわけがない。自然に備わった道徳を膠や縄でしばりつけるのは天下を惑わすものでなくてなんであろう。小惑は人を迷わすだけであるが、大惑は人の性を変えてしまうものである。その証拠に舜が仁義を標榜して天下を矯めてからというもの、みながみな仁義に奔命するようになったではないか。
もう少し詳細に述べよう。三代以後、天下は物によって自然の性を変えるようになってしまった。小人は身をもって利に殉ずるし、サムライは身をもって名に殉ずる。また大夫は身をもって家に殉ずるし、聖人は身をもって天下に殉ずる。これらの人々はそれぞれ、やっていることが違い、名声や肩書が異なるけれども、その天性を破壊し、身を滅ぼすことにおいては変わりがない。

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