三十六、招待状を書く楽しみは残しておいて
昭和二十九年からはじまって、昭和五十七年まで、二十九年間に、私の家に食事に招待した人々の話を長々と書き綴ってきた。もとより、この中に登場した人々だけが我が家の上客というわけではない。またこれで邱飯店は店じまいで、以後もう誰もお招びしないというわけでもない。私も家内も、お客好きで、商売の話をするよりも、気の合った人々を招んでおいしいご馳走を食べ、楽しい話題に花を咲かせることに人生の喜びを感ずる方だから、元気な限り、今後もお客を招待しつづけることになるだろう。
しかし、私たちがそう思っても、ままならぬことがいくつかある。一番の難関はなんといっても、コックが居つかないことである。幸いうちは女房が最も腕のよいコックで、あとは女房の門弟みたいなものだから、何回変わっても大元の味に変化はないのだが、いったん、シェフから取締役食堂部長に昇進させたものを、コックがいなくなったからといって、また台所へ戻すことができないように、女房に全メニューをはじめからおしまいまでつくってくれと頼むわけにもいかない。前にも述べたように、コックを使うことの難しさは、会社で従業員に働いてもらうことの比ではない。コックは長く一つところで働いていると、飽きがきて、どこぞへ移りたいという衝動に駆られるようになる。「庖丁一本サラシに巻いて」と歌の文句にもあるように、一度やめたいと思うと、もうじっとしておられなくなる。せっかく何年もかけて教え込んだ技術がフイになってしまうし、何回もそんなことをくりかえされると、人を教えるのがバカらしくなってしまう。
前にいたコックは、うちの女房の料理をかなり覚え込み、メニューを渡しただけで、ほぼ私たちが九十パーセントくらい満足できる料理を出せるまで上達した。
「貧乏したら、この人をコック長にして、本物の邱飯店を開くようにしよう。部屋が五間あるから、五卓だけ予約をとって、一見さんはいれないようにすれば、商売ば繁盛するだろう」
私が冗談半分にいうと、
「あなた、まだそんなことを考えているの?いったい人生があと何十年残っていると思っているの?」
と女房はあきれた顔をする。
「いや、貧乏したら……といっているじゃないか。いまは原稿を書ききれないくらい書いて、毎日、いろんな人が訪ねてくるからいいけれど、そのうちに電話もかからなくなって、注文が一つもないようになるかもしれないよ。そうしたら、お前が台所に立って、僕が皿運びをやる」
そばできいていた子供たちが、異議を申し立てた。
「パパの皿運びじゃいかさないよ。マネージャーは僕がやって皿運びはかおり(うちの嫁)がやり、パパは、ほら、いつも行くトンカツ屋さんのように、ご飯を盛るくらいしか使い物にならないよ」
皆がドッと笑った。いつも私たちが行く渋谷のトンカツ屋は、息子を目黒の「とんき」というトンカツ屋に修業に出してトンカツの揚げ方を覚えさせ、家族が全財産をはたいて店をつくった。息子は台所、母親が帳場、皿運びはバイトのおばさんたちだが、退職金を全額出資したのではないかと思われるお父さんは、飯を盛るしかやる仕事がない。それを目のあたりに見ているからである。
しかし、そのコックも荷物をさっさと片づけて台湾へ帰ってしまった。女房の五年にわたる努力も水泡に帰し、邱飯店の立て直しをやろうとすれば、またはじめからやりなおさなければならない。飲食店がみなコックに泣かされるように、邱飯店もけっして例外ではありえないのである。
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