本田宗一郎さんのホンダが世界のホンダだとすれば、盛田昭夫さんのソニーも、それに負けないくらい世界中に名の知られた世界のソニーであろう。本田技研は本田さんの技術開発力に支えられて成功した企業で、技術一本で勝負に勝ったという感じがする。それでも途中でうまくいかなかったときは、本田さんが真剣になって自殺を考えたことがあるそうだが、ソニーにはそういう風雪時代は見られない。それは多分、ソニーがホンダと違って、世界に販売ルートを開拓するという商法に徹し、「技術のソニー」というよりは「販売のソニー」という、世界のもっているイメージとはやや異なった展開の仕方をしてきたせいであろう。その推進力となったのが盛田さんであり、もともと、盛田さんは愛知県の造り酒屋の出身だから、商人的な才覚をもった工業資本家になったとしても必ずしも不思議ではない。大宅壮一さんは、「日立、東芝のモルモット」といって、ソニーが大手メーカーの実験台になってきた事実を指摘したことがあるが、モルモットが最後まで生き残り、しかも世界的大企業にのしあがったのは、この盛田さんの腕に負うところが大である。現に我が家の食卓で盛田さんもいっていたが、
「ウォークマンを僕が考え出して、あれをつくれといくらいっても、誰も賛成しなくてね。やむをえず会長命令でやったのですよ。もし十万台年末までに売れなかったら、僕は会長をやめると啖呵をきってね」
販売のセンスがあって、何がよく売れる商品であるかを研究して、それを強引に事業化していくのが盛田流の商法であり、今もその情熱は衰えていないのである。盛田さんが夫婦して、ニューヨークはセントラル・パーク近くの高級住宅街に店を構え、アメリカ中のトップ・マネージメントたちと顔つなぎにいそしんできたのは、けっして偶然でないことがわかる。本田さんと違って、人と人との関係から入った様子が伺われるから、一味も二味も違った新しい型の日本商人といってよいであろう。
私は前に何かの会合で、盛田夫人とは面識があったので、町内会の誼みということもあって、うちへ食事にきませんか、と秘書に電話をかけさせた。
「私、肥っちゃってねえ。節食しなくちゃいけないんですけれど、おいしい話には目がなくて、どうしても駄目なんですの。邱センセイのお誘いですから、お断りするのももったいなくて。主人と相談して時間をつくることにいたしますわ」
最初から本音をまる出しにしたような返事なので、私の秘書がおかしがって私に報告をした。
盛田夫人は、長く外国に住んだり、外国人とのつきあいが多かったりで、感情の表現が開けっぴろげだから、日本人の中には生意気だといってしかめっ面をする人があるが、うちの女房などは「フランクで親しみやすい」とたいへん好感をもっている。やはり盛田さんと奥さんと二人でちょうど一組という感じで、うちに見えるときも、いつも「歩いてきましたよ」と二人肩を並べて現われる。
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